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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

超・個人情報・・・≪名前≫・・・ (愛の領域⑲)

2010-05-17 | 第七章「光と復活体」
 きょうは朝目覚めるとふと、万葉集を開いてみた。一番最初に載っている歌は、ご存じの方も多いと思うが雄略天皇の「籠もよ み籠もち・・・」である。この歌は、菜をつむ娘の名前を教えてくれ、私も名のるからという、趣旨の歌である。若いころは、たわいのない牧歌的な歌かと思っていたがそうでない。

 古代、名前は超個人情報であり、名を知るのは結婚相手などごく一部の人に限っていたとされる。この歌は、そういう当時の常識の中での歌なのである。背景の知識を持ってこの歌を味わうと、魂と魂のやり取りといった深いきずなを感じさせる名歌となる。
 
 個人情報は最近法律もできて、いろいろ保護されてきているようであるが、名前くらいはという、感覚を私は持っている。しかし、古代からの歴史を考えると、もっと大切にしなければならないのかもしれない。

 名前も深いものだとつくづく思ったが、名前だけでなく言葉自体も深い。日本でも独特の感覚があり、結婚式や結婚披露宴などでは忌み言葉を絶対さける。受験でも滑るとかそういう言葉はタブーである。コトアゲ思想。言葉に出すとそれが実現してしまうという古代からの思想なのだろう。

 日本の言霊思想ももっと勉強したいが、聖書などにも同じような思想があるように思う。新約聖書で好きな言葉で、マリアの受胎告知での言葉がある。≪「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。≫(ルカ福音書1章34~38)

 今日は話が少し飛躍してしまったが、こうした魂の交流の感覚とは離れた、共感性の欠如の問題を本来書きたかったのである。人それぞれ、置かれている状況や生育史が違う。だから、お互いに理解しあったり共感したりするのは難しい。とはいえ、極端に共感性を無くす時もある。

 それは何故なんだろうか?


愛の領域⑲(1億2千万人のための生き甲斐の心理学) 59/60)

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