昨日は2か月ぶりに、江の島の近くの腰越の勉強会に行った。いつものように、勉強会の前は腰越海岸周辺を散策。もう、9月なのか海岸の人はまばら。日差しは強いものの秋は確実に近づいていた。
さて、昨日は自分と他者との距離というか、関わり方についていろいろ考えた。そして、今朝も「花子とアン」での花子さんと白蓮さんの関係も考えさせられた。
一人だけだと何となく寂しい。孤独である。そして孤独を解消するのは本来は親密性や愛が重要。しかし、それはなかなか見付けにくく、何となく何かに依存したり、ヘンテコな関係に陥ったりしがちだ。時には、親密性を保つために譲ってはならない自分の信念を邪険にしたりすることも。
人のことは判らないが、自分の場合はどのような傾向があるのだろうか?今現在、何から離れ何を選ぶべきか。そんな思索はとても大切なようだ。悔いのない人生、何のために生きているかという思索と共に、時々のんびり楽しみたい。
もう一つ、自分が執着するものと、真・善・美との関係を考えてみるのもおもしろい。今、私は赤毛のアンに凝っていたり、縄文文化に凝っていたり、歴史家の古田武彦さんに凝っていたりする(生き甲斐の心理学と気功・太極拳は別にして)。生活習慣も昔はお酒などが多かったが、加齢とともに散歩に随分移っている。・・・
この中の一つ歴史について、一言。高校生の時K先生の日本史に出会ってから、今に至るまで日本史への興味は尽きない。楽しい歴史小説に沢山出会い、あるいは歴史好きの人たちとも出会い、ますます拍車がかかっているようだ。ただ、私の場合7歳の時にアラスカで一年住んだ影響もあるのか、カトリックの信徒であるのか分らないが、真実を知りたいという欲求がとても強い。そして、そうした知識を得ると、何か物事が違って見えイキイキしてくるようだ。
ただ、歴史は、ご存じのとおり政治とも関係し歪められる。例えば、古代史も既存の歴史書は制作時の政権によって歪められる。さらに現在も政治的に都合よく歪められてしまう。比較文化論的なより客観的なロジックで考えれば、どうなのだろうかと思うことが多い。
最後に、自分と他者の距離を測る上で大切な、ロジャースの次の言葉をかみしめたい。
命題1: 個人はすべて、自分が中心であるところの、絶え間なく変化している経験の世界(world of experience)に存在する。
自分が何かに凝っていたり依存したり・・・そんな自分の深層には命題1のような、生命の原理が存在すると思う。本当の自分に出会えるような、関係性、依存性を思索することが大事だと思う。
幸福曲線を辿る ① 7/10