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縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

靴を脱いで、畳の上でのんびり!(私とあなた ③ 3/10)

2014-09-29 | 第八章「魂と聖霊」

 今日から、朝ドラはマッサンが始まった。懐かしい広島弁や竹原のシーン、酒造りのシーン(私の祖父は冬に杜氏の仕事をしていた)・・・わくわくしたが、一番はっとしたのは、エリーさんが間違えて土足で畳の上に上がったシーン。日本人では当たり前なのだが、スコットランドにはない習慣のようだ。

 実は、この二日間、日本庭園がある場所に行った。某所の勉強会会場では昼食会場がちょっとした日本庭園の観える座敷だった。そして、靴を脱いでのんびりしたが、なかなかリラックスし話も弾む。もう一つは昨日の昭和記念公園の日本庭園。あずまやに入ったが、素晴らしい景色は堪能したが残念ながら畳ではなかった。すると何か物足りない。京都の禅寺などで畳の上でお茶を頂いたことが懐かしかった。

 さて、日本の靴を脱ぐ習慣はいつからあったのだろうか?畳の歴史を調べると、奈良時代からは確実だそうだが、畳の原形はさらに昔、縄文時代にまで遡れるようだ。竪穴式住居も実際は菰等をひいていたようで、多分靴(草履?)などを脱いでのんびりした可能性も高い。湿度の高いお国柄なので、かなり昔から靴を脱ぐ習慣があったのだろうと思う。そして、それが穢れと禊の文化などにも影響しているのでは。

 

      

 

 しかし、靴を脱いでのんびりする習慣はすばらしい。それだけで、何かリラックスできる。傾聴のポイントにも通づるようでもある。

 傾聴のポイントをU先生の「生き甲斐の心理学」のテキストを参考に、「心理的接触」、「傷つき度」と挙げてきたが、今回はアナ雪の歌ではないが「ありのままで」はどうだろうかと考えている。ロジャースの6条件では、純粋と一致のところで、聴き手はより純粋と一致でなければならないという点なのだが、かなり判りにくいところでもある。勿論、ありのまま=純粋と一致 ではないと思うが、ありのままという言葉はなにか腑におちるところがある。

 聴き手も判らないところ知ったかぶりせず判らないと言い。相手を変な条件をつけて受け入れるのではなく、「ありのまま」で受け入れるのも純粋と一致に関係する。意外に近い概念なのかもしれない。

 父親はかくあるべきだ。母親はこうあるべきだ。子供はこうしなければならない。先生はこうせねばならない。生徒はこうしなければ。そうした、何か靴のような、鎧のようなものを脱ぎ捨て、「ありのまま」で無防備になる。それで、何か判らないことが観えてきたりすることもある。この「ありのまま」は禅問答のように難しいものではあるが、純粋と一致を考える上で大切なのではと思う。

私とあなた ③ 3/10

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