今日の「花子とアン」で思わず胸が熱くなったのは、兄吉太郎が終戦の時点で、元憲兵ということで周りから辛くあたられ、甲府の実家に受け入れられるシーンであった。時代の流れの中で、今までの価値観が崩壊するということは、世の常なのだろうか。自分でもこうした時代の変化、価値観の変化で苦しんだ時期が、「花子とアン」ほどでないにしろ2-3回は経験している。
一つは、ちょうど思春期・青年期のころの進学や学園紛争時代だ。何となく当たり前に信じていたものが崩壊し環境が激変する。二番目はベルリンの壁が落ちて、資本主義が羽を伸ばし始め、例えば終身雇用制度が音をたてて崩れる時代。ちょっと大げさだが、会社生活や家庭生活に意外に大きな影を落としている。
人によっては今日の吉太郎のような、大きな挫折体験を味わうだろうが、私の場合も、心理学でいう自己概念の一部が崩壊てしまうが、幸せなことに再生の喜びに出会ったりした。ロジャースの人格形成論の9番目を地で行ったようなのだ。
崩壊と自己混乱は、勿論、時代の変化だけでなく、自分のライフステージの変化でも起こる。その時、エリクソンの心理学では、忠誠心の世界やアイデンティティがとても大切だと教えてくれる。実際、自分のことを考えても、崩壊の危機の時に自分を救ったのは、カトリックの信仰を含めて忠誠心の相手や思想・哲学だったりした。
ただ、ここで重要なのは、崩壊の時を迎えたときに再生するための芽を、それまでの生活の中でどこかに蓄えていることのようだ。勿論、人知を超えた世界のようでもあり何ともいえないが。私の場合は、ふと観た夜明けの明星だったり、何気なく見入った教育テレビの一コマだったりした。普段、見過ごしていたものが、ある時点から大きな意味を持つようになる。そんな印象だ。
さて、死と再生の物語はいろいろな思想や神話にもでてくるが、今、一番興味を持っている郷土の縄文文化にも出てくる。多摩のストーンサークル田端遺跡や近くの縄文遺跡の中で勝坂式の土器が良く出てくるが、これは地母神神話のようで、土器の中には女神の誕生から死、生殖・再生の物語を描いているようなのだ。
当時の多摩は諏訪方面を含めて、四季がはっきりし美しい。そんな中、しかもどんぐりとかトチとか植物性の主食(粥のようなものだったり、クッキーだったり)に恵まれていたようだ。勿論、イノシシや魚などの動物性のタンパク質なども摂取しただろう。
その中で、当然ながら生きながらえるための祈りが生まれ、楽しい時間も過ごしたのだろう。今も昔も、崩壊と再生はセットとして存在するようだ。私も今後、いろいろな崩壊の時を向かるだろうが、縄文人のように、悲しみのあとには喜びもくるものだと信じよう。
私とあなた ② 3/10