田舎暮らし山裾の日々

信州に移り住み16年 山裾になじむ今日この頃 ECOな生活“循環型社会”を志し 昔と今の田舎の生き方を愉しむ

佳境を迎えた 町づくり研究会

2008年10月05日 | 日記
10月5日(日) 曇り 少しだけ明るくなる 午後中頃から雨 夜 雨

夕べはTVに捉まってしまいなんとなく陽気なアメリカ映画にはまってしまった。
最後の流れるテロップを見ながら時計を見ると3時半だった。

朝はそこそこに起きて一日が始まるが曇り空では外にも行く気がしない。
昨日のウォーキングでは花や蝶と出会ったがブログにのせなられなかったので掲載してみよう。
歩き出して一時間くらいした一番遠いい処まで歩いたところでしばし休憩とした。
その場所にはアケビが沢山なっていて食べ放題と言うところだが・・・・
五葉のアケビで三葉のアケビよりも味は落ちるらしいがそんな贅沢を言う人は誰もいなかった。


少し前の場所にあったのは食べるものではないが“ヨウシュヤマウゴボウ”と云い、洋種ではなく洋種だろう。
アメリカではインク草と云うが日本の子の俺もインク遊びをしたことを覚えている。
葉もだいぶ紅葉していて実を見ると完熟が進み干しぶどうのようになっていた。


途中の田圃の脇に咲いていた“ノアザミ”にはヒョウモンチョウが止まっていた。
翅はボロボロになっていて痛々しかったが軽快に飛びながら咲いてるアザミに表敬訪問に来たようにしていた。
この季節の蝶の写真は痛々しく余り移したくない被写体だろう。


次に見たものは“ウマブドウ”でだいぶ色づいていた。
真っ黒くなるまで蔓に着けておき収穫してからは焼酎に漬けることで漢方薬になるという。
山裾の集落にも沢山あるものでもっと実が大きいような気がした。


昼過ぎには明るくなってきたので畑を一回りしてみた。
大根の葉に小さな虫だが黒い身体に白の紋を付けたお洒落な身体を持っている。
髭か触角までも中央が白く別れているのがすごい。
図鑑やネットで調べてみたが名前は判らないが、虻?それとも蜂?


三時過ぎには雨が降り出してきた。
夕方の前にお茶ということで・・・・
Mの福井の友人KKさんから送られてきた、「栗の甘皮煮」が出てきた。
秋の風情あるお菓子を手作りしたという。
甘さも抑えて栗本来の風味が限りなく秋を感じさせてくれる。


夜は7時半から町づくり研究会の会議があるが、30分前に役員の打合せをすることになっている。
会議は定刻に始まり予定どおりS教育長が出席をして、町の教育のあり方につい見解を述べてくれた。
その後は二つの班に分かれ、「教育部門の図書」と「環境部門の環境フェアー」について話を煮つめた。
合理的な会議ができ定刻9時を10分過ぎて閉会となった。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半日のウォーキング 悠久の大地を歩く

2008年10月05日 | 日記
10月4日(土) 晴 快晴 少しだけ靄が掛かる 穏やかな一日

9時半に町内の東の地域を歩くために宮ノ森公園へいった。
公園に着くと既に地元のRIさん70代の地元の歴史に詳しい女性が待っていてくれた。
直ぐに後を追うように友人夢酔氏が到着した。

今日の集まりは江戸時代に幕府の命により石高を調べた巡検吏が歩いた道を辿ることになっている。
先ずは公園のベンチに座り江戸末期と明治の文書を見せていただきながら解説をしてもらった。
日本語なのに昔の文字が読めないという情けない始末を実感する。


地図で調べると嘗ての道は近代農業に合わせて圃場整備をしたために道が残っているところは僅かだ。
地図に赤線を書き入れてみるがその道でも拡幅され大型のコンバインが縦横に走れるようになっている。


今日歩く道は地図上の中央の赤い道を西から東を歩き大城団地を取りまくように元に戻る道を設定した。
昔のままの姿と思われる道も全て鋪装されており僅かに坂や曲がりくねっているのが面影を残していた。


途中諏訪神社の入り口には双体道祖心が置かれこれも嘗ては別の処にあったものを移したようだ。
この道も拡幅されているという。


やがて広い三叉路にきたがこれは昔の道は僅かに脇の草むらに残るだけで広い道が新しく造られたという。
ここにも昔の道にあった道標や馬頭観音、念仏供養塔がまとめられている。
念仏供養塔には建立された年月は判読不明だが女衆と読み取れた。
道標は右上田左別所とある。当時から別所の温泉にはこの道を通って行ったことが忍ばれる。


団地の東の外れの交差点を南の方へ行くが何故こんなに広い道が造られたのか不思議だ。
将来の都市開発が計画されているのだろうか?


直ぐ近くには蓼科山から流れている芦田川が流れいる。
護岸はコンクリートで固められているようだが三張りだけは免れたらしく、川の流れに沿って渦が巻いているのが嬉しい。
前沢橋の上から眺める水はきれいに澄んでいた。


芦田川の水が豊富に使えることから稲作は発展してきたことだろうが、川より田の方が高いから水をあげるのに水車が使われたという。
今はポンプが使われるようになりその姿は想像すらできないが、稲穂が首部をたれている様を古から浅間山が見舞っているように見えた。


今では田の一枚一枚が大きくなり効率的な農作業ができるようになっている。
しかし、それぞれの田の持ち主が神への感謝と五穀豊穣を願った道祖心などをまとめて並べているのが悲しい。
責めても昔の地図と石神たちが在った場所を記したものを残して欲しかった。


一回りして戻ったときの歩行数は9750歩2時間半の行程だった。
途中休みもなく歩き通したが一カ所では山の恵み“アケビ”が食べてくれと云わんばかりに口を開けていたので3人でいただいた。
少しだけ遠回りをしてしまったが、次回10日にはふるさとプロジェクト面々を案内しなければならない。
楽しい資料が作れそうだ。
地元歴史家RIさんありがとうございました。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする