購読している、岩波書店のPR誌「図書」に津田篤太郎さんが「日本医学の開拓者」という題でエッセイを書いていて、その冒頭に鶴見俊輔さんの著書「はみだしについて」からつぎのような引用がされている。
『定義を覚えて、その定義にすっぽりはまる実例をひく。これは、学生として試験の答案を書くときには適切な方法である。
だが、学問を開拓するには、それは適切な方法ではない。』(引用終わり)
また、末尾にやはりその続きが引用されている。
『欧米の先生の定義に合う実例をさがして書く答案がそのまま学問の進歩であるという信仰が、右左をこえていまも日本の知識人にはある。そこから離れる方向に、私たちはいつ出発できるのか。』(引用終わり)
これを読んでもちろん鶴見さんの主張は正しいと思うのだが、それ以前のことがあるように感じた。
それはものごとを正しく理解することは難しいということである。もちろん、日本を代表する知性である、鶴見さんには難しくはないのかもしれないが、一般には難しいことである。
私はこの実例という語を読んで、すぐに思い出したのは、数学の書を読んでよくわからなかったときに、故 I 先生から「実例を考えたらいいですよ」と言われたことである。だが、そういう場合に限っていうならば、とても例を考えることなどできはしなかった。
また、これは友人の数学者Nさんなどもいつも言われることだが、実例の大切さは本当にその数学の意味がわかれば、実例をあげることができるはずだという。実は実例をあげることができないならば、まだその事柄を十分には理解していないという。
この「実例を考えなさい」とか、「実例を挙げなさい」というアドバイスはかなり普遍的に数学を勉強する人々に与えられるらしい。そして場合によってはこの例を考えることによって、それを抽象化すれば大きな理論となる場合もある。
数学者もはじめから抽象的には考えていない。あるモデルを考えてその性質を探り、それを抽象化して論文を書いているらしい。
これは私は数学者ではないので、らしいとしかいえない。数学者で自分の思考の手の内を明かす人は少ないからである。
ただ、鶴見さんもいうように実例そのものを挙げることは理解に役立つとしても、また試験の答案としてはいいとしてもそこで終われば、新しい学問ではない。さらに踏み込んでいく必要がある。