中学生がいじめに屈して自殺をしたらしいというので、これは昨年のことだが、最近学校の捜索に警察が入ったりしてニュースになっている。
朝日新聞でもそれに負けないようにとでもいうのだろうか。識者の意見や考えがシリーズで掲載されている。
それらはいずれも確かに間違ったアドバイスではないだろうが、私にはそういったいじめを生む人々というか、その雰囲気をなぜ問題にする人があまりいないのかということが気になっている。
別にいじめをする人を弁護したい訳ではないが、いじめをする子どもの心理に分け入らなくてはいじめはなくならない。もちろん、いじめに負けてはいけないから、それぞれの個人が気を強くもって孤立しないようにして、相談を誰かにすることが必要ではある。
だが、どうしていじめの心理が働くのかを基本的に解明できなくてはならないのではないかと思う。いじめをする人たちもある意味ではそういうことでしか、心理的な不満のはけどころをもたないからいじめが起こるのではないだろうか。
もっともそういういじめを社会の仕組みを直すことで少なくするというのはなかなか気の遠くなるような話であって、社会をどのように変革してみても、心理的にいじいじしている人がいることは否定できない。
私も中学校時代に生意気だと思われて、通りがかりに先輩や同級生からみぞおちや腹に一発食らうというようなことがあったが、いわゆるじめじめとした「いじめ」には遭遇しなかった。
それでいじめに対する経験が少ないから、あまり的確なことを言えないのだが、それでもやはりいじめを起こす人々の心理の問題を考えたいと思う。
彼らが心理的に自由にならないといじめはなくならないのではないか。大学の勤務を退いた後で、元の同僚のご本人から、「君を見ているといじめたくなる」と告白されたことがある。
そういう感情を持つ人は大抵の場合、頭もよく優秀な人である。ただ、この人はそれをかなり後であったにしろ、その当時持った自分の感情を告白された。
それで、そういう心理がある程度よこしまな心理であるということを自覚されていたのだろう。だからそれはある程度抑制が効いているとも考えられる。
完全にその方が心理的に抑制をされていたとは思わないけれども。また、そのことで私はその方を恨んだことはないことを言っておきたい。短気な人という印象は抱いたけれども。
それはある機会に私が何の気もなしにした、あるきっかけがあったかとも考えている。それはささいなことではあったのだが。
それよりはずっと以前のことだが、やはり学生から後で「あのころの先生はふうふうだったね。体調もあまりよくないようだった」といわれたことがある。
なにがどうだったのかは詳しいことは忘れたが、それでも自分の心理や体調は、講義をしているときにでもかなり反映していたと考えられる。
いじめはいじめをする者たちの場(社会)であるから、「その場の秩序を壊さない」とそのいじめにいつまでもあう。その場の秩序をいかにして壊し、「いじめのない新しい場(社会)にするか」。これを私の乏しい経験から強調したい。