昨夜は月曜であったので、NHKでのプレゼンの紹介である、TEDカンファランスを見た。
その話はネット上にツイッターなりブログなり、写真だとか動画が登録されている現状では個人の情報や意見の発信状況が大量に記録されているから、それの分析もできるようになり、その発信をした人が亡くなった後でもその意見を忖度して発信を続けることが可能になるだろうという。
そのときには肉体的にはその方は死亡していてもその方の意見表明は続けて行うことが可能になるかもしれないという。そのときの個人の死とはなんだろうかというような内容だったと思う。
もちろん、現在ではまだその個人の情報や意見の発信状況の分析はそれほど上手にはできないので過渡期であるという。だが、コンピュータの能力が飛躍的に上がってくれば、このプレゼンをしたジャナリストの言うことに近づいてくる可能性はある。
だが、私自身は彼の意見にあまり賛成ではない。というのは人間というものは少しづつ生きていくうちに学ぶものであるが、死んだ後でもそのようなことが可能なのであろうか。いくら分析をしたところでそのような創造的なことができるとは思えない。
生きている生身の人間のおもしろさはなんといっても、この創造性とか人間の発展性ではないのか。それも論理的な帰結としての発展ではなくて、論理の飛躍とも思われるような。それが可能だろうか。私はむしろ否定的である。
だが、この思考実験はとてもおもしろい。私にしても1800回近くのブログを書いた。実はまだ20数回ブログを書かないと1800回に届かないが、それでもその1800回はもう射程に入っている。その過去の分析から創造的なことが出て来ないとは確かに言い切れない。
とそんなとりとめもないことを考えた、昨夜であった。