注釈の多い文章は悪文なのだろうか。
私は別にそう思ったことはない。これは若い大学院生の時代に指導教官が私たちの書く論文にコメントを脚注として結構多く挿入された経験を持つからである。
第一、文科系の書籍とかだと注釈が多くついているのではないだろうか。本文に書くほどではないことでやはりちょっと注意をしておく必要のある事項を脚注に書くというのはあると思う。
それとも理系の論文とかでは脚注を書くことをあまりしない方がいいという教えでもあるのであろうか。それがわからない。
山本義隆氏の著作等でも長い脚注がつくものが多いのではないだろうか。もし脚注が長すぎるならば、付録とか補遺にまわすことも考えられる。
私も自著『四元数の発見』で付録に面倒な計算を回したという経験をもつ。本文はできるだけ話の筋を展開するようにして、計算のようないわばテクニカルなことは付録に回した。
それが親切だったかどうかはわからないが、話の筋と詳細な計算とは二律背反するような気がする。
現在準備している「余弦法則と正弦法則」の原稿にしても関連のサイトを見ていると話の筋がよくわかるサイトとそうではないが、計算が詳細なサイトとがある。
よく読んでわかりやすいように書くというのはなかなか難しいものである。
私は別にそう思ったことはない。これは若い大学院生の時代に指導教官が私たちの書く論文にコメントを脚注として結構多く挿入された経験を持つからである。
第一、文科系の書籍とかだと注釈が多くついているのではないだろうか。本文に書くほどではないことでやはりちょっと注意をしておく必要のある事項を脚注に書くというのはあると思う。
それとも理系の論文とかでは脚注を書くことをあまりしない方がいいという教えでもあるのであろうか。それがわからない。
山本義隆氏の著作等でも長い脚注がつくものが多いのではないだろうか。もし脚注が長すぎるならば、付録とか補遺にまわすことも考えられる。
私も自著『四元数の発見』で付録に面倒な計算を回したという経験をもつ。本文はできるだけ話の筋を展開するようにして、計算のようないわばテクニカルなことは付録に回した。
それが親切だったかどうかはわからないが、話の筋と詳細な計算とは二律背反するような気がする。
現在準備している「余弦法則と正弦法則」の原稿にしても関連のサイトを見ていると話の筋がよくわかるサイトとそうではないが、計算が詳細なサイトとがある。
よく読んでわかりやすいように書くというのはなかなか難しいものである。