古本で購入していた、板倉聖宣さんの『科学と方法』(季節社)の初めの予想論だけをようやく読んだ。
その中で類推は予想をするときに一つの考え方だが、その類推が成り立つのは「問題を構造的・本質的に深めて調べて、それら比較されるものの間に本質的な一致があるかどうかを調べてはじめて確かな結論を得ることができるのである」とあり、なるほどと思った。
そんなことは当然ではあろうが、それでもそういう意識がしっかりしていないといけないということであろう。板倉さんは私などと比べても大分年長であるが、これがまだ若いときにそれも25,6歳のときに書かれた文章だと知るとそれくらいの歳に私はそんな素晴らしい認識に至っていたかどうかあやしいと思う。私は類推と比較を自分の素朴な科学研究の方法論的な道具としていつも使っているのだが、そういう本質的なことには頭が回らなかった。
この予想論は『思想の科学』の1955年1月号に掲載されたものだという。私は板倉さんの書籍のあまり熱心な読者ではないが、考え方が彼の中では実践と結びついているという感じを与える。
いつだったか、『主体性論、実践論、組織論』という書を読んだ。どうも毛沢東の『実践論・矛盾論』を思わせる題名だったが、それを読んで毛沢東の書とは違った感銘を受けたが、物忘れの激しい私はすぐに内容を忘れてしまった。それではあまり本当の意味の感銘を受けたことにはならないのだが、年をとってしまってすぐに忘れてしまう。もっと若いときに読んでおくべきだったろう。
その中で類推は予想をするときに一つの考え方だが、その類推が成り立つのは「問題を構造的・本質的に深めて調べて、それら比較されるものの間に本質的な一致があるかどうかを調べてはじめて確かな結論を得ることができるのである」とあり、なるほどと思った。
そんなことは当然ではあろうが、それでもそういう意識がしっかりしていないといけないということであろう。板倉さんは私などと比べても大分年長であるが、これがまだ若いときにそれも25,6歳のときに書かれた文章だと知るとそれくらいの歳に私はそんな素晴らしい認識に至っていたかどうかあやしいと思う。私は類推と比較を自分の素朴な科学研究の方法論的な道具としていつも使っているのだが、そういう本質的なことには頭が回らなかった。
この予想論は『思想の科学』の1955年1月号に掲載されたものだという。私は板倉さんの書籍のあまり熱心な読者ではないが、考え方が彼の中では実践と結びついているという感じを与える。
いつだったか、『主体性論、実践論、組織論』という書を読んだ。どうも毛沢東の『実践論・矛盾論』を思わせる題名だったが、それを読んで毛沢東の書とは違った感銘を受けたが、物忘れの激しい私はすぐに内容を忘れてしまった。それではあまり本当の意味の感銘を受けたことにはならないのだが、年をとってしまってすぐに忘れてしまう。もっと若いときに読んでおくべきだったろう。