物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

残暑

2008-08-14 11:18:07 | 日記・エッセイ・コラム

残暑とはいうが、暑い。立秋を過ぎると残暑というらしいが、どうしてどうしてまだまだこれからが暑さの本番である。明日はいわゆる終戦記念日であって、第二次世界大戦が日本で終わった。ということは世界で終わったということである。

終戦とはまやかしの言葉ではあるが、なかなか敗戦とはいいずらい。実際は敗戦であったにもかかわらずである。歴史的にわかってきたことはどうも軍部が戦争の結果の予想もしないで起こした無謀な戦争であったということである。15年戦争といわれるからそれは1930年には始まったことになる。1930年は昭和5年にあたるから、私よりも年上の人たちはほとんどこの戦争にどっぷりとつかっていたにちがいない。

私は1939年生まれであるが、もの心ついたときには戦争をしていた。シンガポールを占領したときの祝賀ムードというかラジオの音楽と興奮したアナウンスをよくはわからないながら覚えている。そういう時代に育った人々の大多数は戦争を批判するということなど論外であったにちがいない。

だが、それでも戦争に批判的な人はいたのだ。だが、それが多数を占めることはなかった。教育のなす業だろうか。現在は食料も石油もその他ありとあらゆるものを外国に頼っているから、戦争などはできないことはわかっている。もっともわかっていない人も多くいるのだろうがともかくも食べるものもガソリンもすぐに尽きてしまうのはわかりきったことだから戦争が好きな人でも戦争へと走ることはできない。

ただ、日本の近くでは戦争を起こさないで、不安を煽って兵器をつくらせ、儲けようとする産業は後を絶たないだろう。資本主義は儲かればいいのでそれが国民の税金を掠め取るような行為であろうとなんであろうとする。倫理などというものは期待できない。人がどんなに困ろうと石油の確保のためにイラクで戦争を始めたアメリカがいい例である。

それに対してもちろんアメリカ国内でも反対が大きかったが、議会を多数を占めていた当時の共和党とブッシュの政府は戦争を強行した。その結果は現在の通りで泥沼化している。

最近ではイラクの情勢よりもアフガニスタンでの情勢の方が悪化しているというが、本当のところはわからない。治安がよくならず、生活が安定しなければタリバンが復活してくる可能性は捨てきれない。人民の支持なしにはどの政治勢力も安定な政権を保持し得ない。


逆さマッタホルン

2008-08-13 15:03:15 | 写真

ドイツ語のクラスで一緒のTさんが、スイス、ドイツの旅行から帰ってきて、そこで写した写真をもらった。逆さマッタホルンである。これはマッタホルンが湖に逆さに移っているのをマッタホルンと共に撮った写真である。

ツェルマットで撮った写真で貴重なものである。それを大きく引き伸ばしてかつ額に入れたものをもらったのだ。大事にしたい。

この逆さマッタホルンで思い出したのは学生の頃に島崎敏樹という精神病理学者がいて、岩波新書に魅力的な書を数冊出していたが、その中に湖の湖面に写った山の写真があり、それを90度回転させた写真を載せていたことである。

それを思い出してこの写真をもらったときに90度回転して見せたが、その意味をわかった人はいなかったに違いない。逆さマッタホルンも90度回転してみると異様な感じがするにちがいない。

これは鏡を足元に置いたときの像と同じであって、鏡に映った像は上下が逆さまに見える。

いつだったかテレビの英語会話でオーストラリアでは南極が上になった地図をお土産に売っているとかでそれを見たことがあった。

日本の世界地図では日本が真ん中に描かれていたりするので日本が重要な国であり、どこの国の地図にでもそう描かれていると日本人は思いがちだが、一般にはそうではない。

話はまったく飛ぶが、先日、たまたま見た中国語会話のテレビで日本人と中国人の友達が肩を組んでいるのを見て、中国では日本と同じ感覚だなと思ったが、これは世界的には誤解を生むしぐさである。

もしヨーロッパで男性同士が肩を組んでいたり、するとこれはゲイとかホモだと思われてしまう。単なる親愛の情とはみなされないのだ。

フライブルクのゲーテ・インスティチュートでドイツ語を学んでいたときに、そのインスティチュートが計画したワイン試飲の小旅行があって、ブライザッハに行った。

ワインの試飲会の後で、近くの丘の上の教会の庭でライン川の向こうのフランスの方を見たりしながら、みんなで並んで座っていたが、スペインからの男子学生が隣の男子学生の肩に手を回しているのを見た。

そのときはなんとも思わなかったが、その後で友人のイタリア人の化学者が「けしからん」と怒っていた。そのときにようやくその意味を知った。

後でその意味を知ってその怒りも無理からぬと思ったものである。一方、男性が知り合いの女性の肩に手を回すのはヨーロッパではそれほど問題ではないと思う。


鼻かぜ

2008-08-12 12:50:06 | 健康・病気

暑いのでエアコンをかけて寝るせいか、鼻かぜ気味である。昔はエアコンなんてなかったから夏は寝苦しくて睡眠不足になったものだ。このごろではエアコンなしの生活は考えられない。

2階で寝ているが、7,8月はとても暑くて夕方になると2階の窓を開け放しに行くが、それでも外気の温度が下がらないのだから、屋内の温度が下がるわけがない。でも窓を開け放しに行かないと夜の11時ごろでも昼間の余熱で蒸し暑いからもっと大変だ。

日本の季節は四季がはっきりしていいていいが、この7,8月の暑さはこたえる。この暑さがなかったら、日本ってどんなにいい国だろうかといつも言っている。これは気候における住みやすさの問題で政治や経済の問題ではない。

政治が経済とか生活を改善できる余地がほとんどなくなっていて、生活は苦しくなっている。

いや昔と比べれば、生活内容は格段によくなっているだろうが、単に昔と比べるということではなくて現在の段階で物事を考えないといけない。国の財政赤字は800兆円という。それを後世の子孫たちに残さないためには財政の緊縮化が必要であろう。ところが一方で貧困が起こっている。これは規制緩和のせいでもあろう。そして公定歩合を上げると不況だという。

公定歩合を下げたり、人件費の合理化によってやっと保たれていた好況だったということであろう。だから、会社は資本蓄積が少しできたにせよ一般の者にはどうも好況という感覚はまったく感じられなかった。

日雇い人材派遣とか職業も安定しないし、収入も安定しない。ところがこれらの人が政治的にまだ十分には怒っていないように思われる。単に文句を言うだけではすまない。投票で時の政府を動かす必要がある。生きていくのに必死でそんな余裕はないというのが実情なのだろうが、それでも一票の重みが積み重なれば、政治を動かすことができる。

後期高齢者といわれる老人も社会弱者の中に入るが、その人たちも危機意識が十分でない。私も数年したら、後期高齢者の仲間入りなので、人ごとではない。


分岐点

2008-08-11 12:41:25 | 数学

昨日市の図書館に行って数冊数学の本を借りた。その一冊に大森英樹さんの「幾何のみかた?」があった。

この本の中に分岐点の話やリーマン面の話があった。分岐点がそこでだけ多価関数でなくなっている点であるとの指摘はいい。それだけではなくて関数の値が具合が悪くなる点だということを詳しく説明してあった。

もっとも自分で少し計算をしてみないとまだ十分には納得をしていないが、こういう本がすでに出ていたのだ。


二面体群とは?

2008-08-09 14:02:34 | 数学

二面体群のD_{3}はC_{3v}と同じだとは知らなかった。二面体群の群表が出てきてこれがどこから来たのかわからなかった。元がE, A,B, C, D, Fで生成子はAとFだという。

ところが二面体群のD_{3}についてわからないので、インターネットを調べたところ、D_[n}は正 n 多角形を (2 pi/ n)=360/n 度 だけ正多角形の中心のまわりの回転させたときの操作とどこかの頂点と正多角形の中心を通る直線の周りのpiの回転をするのが基本操作であった。

n=3ととれば、これは私のよく知っていたC_{3v}ではないか。これならイメージがつかめる。C^{2}=D^{2}=F^{2}=Iであることもなんなくわかる。A^{3}=1であることも当然である。F^{2}= I も当然である。


オリンピックがはじまる

2008-08-08 15:05:37 | 日記・エッセイ・コラム

今晩から北京でオリンピックがはじまるが、私の生活の中にはあまりオリンピックは入ってこない。金メダルを取ろうが取るまいが私にとってはあまり大したことではない。もちろん、これは競技者個人にとっては大変なことである。場合によってはほとんどその人の人生が変わるといってもよい。

世界のある分野の競技においてにしろそこで一番というのはやはりおろそかにはできない。そのまた努力たるや並大抵のものではないことは事実である。いろいろな厳しいトレーニングを経て、また対抗者との闘いを経て、また自分の弱気との闘いを経て、世界で一番となるのだから。

オリンピックの進行とともにまた多いか少ないかはともかくも金メダルを取る人もでてくるだろう。そしてそれを手にしたときにはじめて自分の労苦が報われたと感じることだろう。だが、別にもしメダルをとれなかったからといって自分の人生が無となる訳ではない。その努力したという経験を後の人生に生かせばいいのだ。

話が変わるが、先日プロフェッショナルの条件でアニメ映画監督の宮崎駿が出ていた。彼が自分で絵コンテを描いてアニメの構想を練るというところがとても意外というか目新しかった。そのシーンの一こま一こまがすべて彼の経験したことから来ているという。天才とはすばらしい経験を有する人たちなのだ。

物理の分野にファインマンという天才物理学者がいた。彼はすべて直観なんてものはない。すべて経験からくるといっていたそうだが、すべての経験を生かすことができるのがやはり天才の天才たる由縁なのであろう。

「風の谷のナウシカ」というマンガは私の長男が読めといって貸してくれたマンガだったが、その後の宮崎駿氏の活躍はすばらしい。しかし、そこに至るまでは長い雌伏のときがあった。

いまでは海外でもHayao Miyazakiの名を知らない若者は少ないだろう。だが、いまでも絵コンテを描いて自分でストーリをつくっているのを見ると人間っていうのはなんて地道な活動がもとになっているのだと思い知らされる。

天才というのは努力のできる才能の言い換えかとまで思われてくる。お陰で11時からの英語会話の放送を見ないで宮崎駿氏のドキュメンタリーを終わりまで見てしまった。


モザールって何?

2008-08-07 12:31:39 | 日記・エッセイ・コラム

フランス語を習っていると、ときどき「えっ」と思うような言葉に出会う。たとえば、モザールである。これをMozartと書いたら、なあんだ、モーツアルトのことかとわかってしまうが、はじめてモザールと音で聞いたときは「えっ」と思ったものだ。

これほどびっくりはしないがラ ジョコンドというのはわかるだろうか。La Jocondeだと思うが、いわゆるモナリザのことである。フランスではモナリザとは言わないとはもう40数年前にラジオのフランス語講座で聞いた。

そういえば、パリのルーブル美術館を訪ねたのももう31年くらい前だが、このモナリザを直に始めてみたとき近づいてみると小さなひび割れが画面全体にあったことを思い出す。これはその後なんどもテレビでこのモナリザを見たが、よっぽどカメラが近づかないとそのひび割れは見えないので印象には残らないように思う。このモナリザは中学校のころ、絵の時間にモナリザの謎の微笑についていろいろと聞いたように思う。このときに見たのはもちろん複製だったが、それでもその美しさは印象に残っている。

ミロのビーナスはルーブル博物館の1階の玄関を入って左に行った突き当りにあったと思うが、それほど人が群がっているというほどでもなくむしろそのことで感激をした。

これは大学院の学生の頃、ミロのビーナスは日本に来たことがあって京都の美術館で見たと思うが、黒山の人だかりでその人の肩越しに見たのを覚えている。だから、パリで見たときには2回目だったのだが、そんなに簡単にミロのビーナスを見ることができたのに感激したのだ。


熱の問題

2008-08-06 12:41:49 | 物理学

暑い季節が続くので熱の話題を今日もまた取り上げる。

家の東側は朝日があたるとは昨日も言ったが、ここには車が停めてある。ということで車の中はドアを開けるととても暑い。エンジンを始動したら、すぐに両側の窓を開けて外気を入れるようにしている。そうでないとひどく暑いのだ。40度をこしているかもしれない。もちろん車のエアコンは自動的に入るが、それでも暑い。

両側の窓を開けたまましばらく運転して仕事場に来るが、途中のスーパーのところで国道に出るので車の窓を閉める。それまでに暑かった空気は少し入れ替わっているのだが、それでもまだ暑い。空気が入れ替わっていないのかとはじめ思っていた。もちろん全部は入れ替わっていないのだろうが、それだけではない。フロントグラスを触ってみるとまだ熱いのだ。

それでわかった。フロントグラスからの熱が輻射によって出ているのだ。ところで中学校で学んだ熱の伝わり方の3つの方法である。伝導、対流、輻射と3つの方法で熱は伝わると習った。ところがその後の高校とか大学での物理学でそれについてさらに進んでそのことを学んだことがないように思った。

高校で本当に学ばなかったのかはそういうことを授業であったのに聞き逃したのかもしれない。と思って山本義隆「新物理入門」(駿台文庫)を開けたみたが、出ていない。昔、受験勉強のために読んだ金原寿郎「物理の研究」上(旺文社)を開いてみるとさすがに出ていた。だが、高校の物理で習ったことがないのは多分確かであろう。

いまパソコンの前に座ってこの入力をしているのだが、暑く感じている。それで窓ガラスを触ってみたが、まだガラスは熱くはない。ということはこの場合はこのパソコンの前辺りの空気が熱いのであろう。熱い(暑い)といっていろいろである。


ドアの熱膨張

2008-08-05 11:50:46 | 物理学

自宅は玄関が東側に向いている。それで夏は朝日があたって真鍮製の玄関ドアが膨張して開かなくなる。これはいつも経験していることだ。少し遅く起きて新聞をとりに出ようとするともうちょっと押したぐらいではドアが開かない。

しかたがないから庭のほうから玄関前のポストから新聞をとってくる。金属の線膨張率は10万分の一くらいだと思うのに日常生活に支障が出るほどドアが膨張するといういい例である。

因みに銅でドアができているとして温度が40度となったとすれば、2.0掛ける10^{-5}掛けることのドアの長さを1mとするとおよそ1度の温度で0.02mmの膨張となる。

この線膨張率が20度のときだとすれば、これを20倍すれば0.4mmとなってこの大きさのドアの膨張はもう影響を与えても仕方がない。とにかくドアは開かなくなるというのは事実であるから、線膨張率が10万分の一のオーダーだといっても馬鹿にはならない。

もっとも日があたらなくなるとすぐに冷えてドアは簡単に開くようになるので、それほど困るわけではない。

この頃はJRの線路も継ぎ目のないものが多くなっているかもしれないが、昔の記憶では線路と線路の継ぎ目は1cm近く空いていたと思うが実際はどれくらい空いているのだろうか。


靖国神社

2008-08-04 11:23:35 | 映画

政治に関係したことはこのブログではできるだけ触れないことにしている。それで今回の靖国神社も映画「Yasukuni」の感想である。

昨日市内の某映画館で映画「Yasukuni」を見た。前評判として右翼が東京で上映反対運動をしたとかであったが、見ての感想は特に国辱ものだとの感じは持たなかった。むしろありのままの靖国を報じていて、その判断は見る人に委ねられていると思う。右翼がむしろこの映画の宣伝を喜んでしてもいいくらいではないかとまで思った。半分以上は8月15日に自分たちの行っている行事をそのまま映してもらっているのだから。

中国人の監督が作った映画だが、日本人のスタッフが多くかかわっており、中国サイドの観点からつくった映画だとは思わない。もしそういう人がいれば、その人の公正さが疑われるであろう。後半で昔の記録映画の部分の引用が多かったが、それをもし否定するとすれば、すなわち歴史の事実を否定することになろうし、それについての意見は映画では直には出ていない。

私はむしろ8月15日の靖国神社で起こっていることのルポのような感じをもった。それは日本の全体ではないにしても、確かに現実の日本で起こっていることであることは間違いがない。ひとこと個人的な感想をつけ加えれば、時代が60年以上さかのぼったような感じがした。


劇場型か自動車学校型か

2008-08-02 10:20:38 | 受験・学校

「学校は将来的には劇場型か自動車学校型のどちらかになる」といったのは数学者の遠山啓である。

私のM大学での講義はいくらか劇場型である。これは長年勤めていたE大学での講義とはまったく考えを異にしている。

E大学では気持ちとしては自動車学校型の講義をしていた。

自動車学校型の講義は実利的ではあるが、面白いはずがない。もっとも面白くなくても車の免許をとろうとしている者にとっては免許をとるまでの一時的な在籍だから、それほど文句は出ない。

いや、私の講義は文句をいっぱいもらった。ひどい学生には死ねとまでののしられた。もっともこれは直接言葉として言われたわけではなく、授業アンケートにおいてこう書かれていた。

授業中の不真面目な態度を注意したり、私の独特の言い回しで授業で学生に皮肉を言ったりしたのだから、この仕返しは当然ともいえる。

彼らにとってはなぜ学ばなくてはならないのかわからないことを講義で聞くのだから、それも当然だったろう。

学生に少し洞察力があれば、私の講義の重要さはわかっただろうが、そういった洞察力をもった学生はいたとしても少なかった。電気電子工学には量子力学など学ばなくてもいいと教官でさえ思っている人もいたかもしれない。

電磁気学は目に見えず難しいというが、量子力学はそれにもまして抽象的でつかみどころがない。これは初期の私の学生の述懐である。

そうかといって量子力学を朝永の「量子力学 I 」(みすず書房)みたいな風に短い時間内で講義をするわけにはいかない。量子力学を学ぶにはもっと近道をすることができるはずだ。ということで即物的な講義となる。

私自身は原子物理といったいわゆる量子力学の前段階を学んだ後で、さらに量子力学へと進んだ。解析力学のHamiltonの正準方程式も学んでいた。

だが、工学部の学生にはそういうことは知らないで量子力学を学ぶので、Hamiltonianを系の全力学的エネルギーとして定義し、その式でSchr"odinger流の量子化を行う。

すなわち、運動量p_{x}を x での微分演算子に、エネルギーEを時間 t での微分演算子に置き換える。いわゆるSchr"odinger流の量子化である。そうやって、Schr"odinger方程式を導く。後は一見したところ数学の微分方程式の解法のようである。

計算はできるだけ簡単になるように目的に沿うようなアレンジはしたが、学生には面白くない。何か式の計算だけをやっているような印象をもったであろう。

多くの人がどのような量子力学の講義を学生のときに聞いたかは知らないが、私自身の聞いた量子力学の講義もそのようなものであった。

自分ではずいぶんと苦労をして数式演算の部分を簡略化したつもりだが、学生にとっては私の量子力学が、はじめでかつ最後の量子力学だったので、ずいぶんと複雑で面倒との印象をもったらしい。

朝永の「量子力学 II 」(みすず書房)では朝永自身がはしがきで、「この II 巻では物理が数学の陰に隠れたかのようである」といったことを述べている。量子力学の講義はどうしてもこのような印象から逃れることは難しい。


latex原稿の修正

2008-08-01 11:39:39 | 日記・エッセイ・コラム

latex原稿の修正をしていた。2箇所だけ間違っていると思えないのにundefined とエラーが出る。そこをコメントにすれば、エラーはなくなるのでここが確かにエラーの原因箇所である。だがどこをどう変えたらいいかわからない。それでもう一度自分で入力しなおしたらエラーが消えた。

こういうことはコンピュータのプログラムを組んだ経験のある人なら経験があるだろう。どこかに字面を見ていてもわからないミスがある場合があるものなのだ。これはこういう経験をした人でないとわからない。

さて今度は面倒な索引の語の入力が待っているが、その前にどの語が索引に指定されているかのマークを原稿のプリントアウトにサインペンでマークを入れなければならない。しかし、この夏の暑さだ。作業がはかどるはずがない。