今日の朝日新聞の「素粒子の狩人」という欄に木庭二郎さんのことが出ていた。いわゆるマスコミ的には有名な人ではなかったが、戦後の素粒子論研究者の中では実力者の一人といわれていた。
有名な朝永振一郎の「くりこみ理論」の建設に重要な一翼を担ったことで知られている。
東京高校の学生であったときに、その政治的な活動のために学校を追われ、その後高校の入学資格をとるために山形県の商業学校を出て山形高校へと進学し、東京大学の物理学科へと進んだ。
獄中にあったときに肺結核を発病し、その後大学の在学中にもその病のために休学を余儀なくされ、1945年にようやく大学を30歳で卒業されたという。卒業直前の数年間はいわゆる朝永スクールの一人として朝永さんの指導を受けた方である。
その後、大阪大学の助教授を経て京都大学の基礎物理学研究所の教授となり、研究所の任期が終わってポーランドの研究所へ行き、その後デンマークのボーア理論物理学研究所に落ち着き、そこで亡くなった。59歳だったと思う。
それもイタリアの物理の夏の学校かなにかの講師として行くためにコレラかなにかの予防注射を受けたのが、古い病気を引き出して亡くなったと聞いている。
昨年ノーベル賞をもらった益川さんが学生に「自分のことを先生とは呼ばさない」ということで一般には有名になったが、その慣習を作った一番初めの研究者であるといわれている。
研究を一番優先されて雑誌や新聞にエッセイ等を書くこともほとんどされなかったという人である。これは彼が肺結核を患っていたので、自分のできることを研究第一に絞ったからであった。文芸評論家の中村光夫は彼の実兄であり、二郎というのだから木庭さんは次男だったのだろう。
私には「中間子の多重発生」の研究者としての彼の印象が強い。
これは私が生まれてはじめて物理の研究に関心をもった領域がこの中間子の多重発生であったということによっている。木庭さんと高木修二さんが書いた中間子の多重発生についてのレビュー論文の別刷りをO教授からもらって読んだのは私が修士課程のころであった。
残念ながら、事情で「中間子の多重発生」の分野の研究論文を書くことは私にはなかったのだが、そのことを思い出すと懐かしい。
木庭さんは謹厳実直でまじめな方であったらしいが、その門下生のニールセンは天才的な学者といわれている。
また、木庭さんは外国語の堪能な方で一番上手なのはロシア語であると私の先生のOさんから聞いていた。つぎに上手なのはドイツ語であったと聞いた。
これは病の床に長年伏しているときに外国語を勉強されたことによるとか。それにしても木庭さんが病気で伏せっていたころはあまり外国語の学習に適した時期ではなかったろうに、なかなか天才的なところがある。
南部陽一郎さんも最近の著書『素粒子論の発展』(岩波書店)で木庭さんのことに触れている。
大学の入学年は南部さんと同年だったらしいが、木庭さんの卒業は病気のために南部さんよりも数年遅れた。しかし、多分木庭さんの方が南部さんよりもなお数年は年長だと思う。
(2014.2.28 付記)このブログにアクセスがあったので、文章に追加をしたり、一部を書き直した。木庭さんには会うことはなかったが、多くの人の記憶に残ってほしい学者の一人である。
(2018.3.12付記) このブログにアクセスがあったので、文章の意味があいまいだったところを修正した。
岡部昭彦さんの著書『科学者点描』(みすず書房)に木庭二郎さんのことが書かれている。