物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ものごとはなくならない、形を変えるだけ

2011-06-13 15:11:46 | 日記・エッセイ・コラム

NHKのEテレのJ文学で、先日、夏目漱石に「道草」がとり上げられており、その中の標題のような文句があるらしい。これは世の中の世事についてであるが、これは少なくとも物質に関しては正しい。

原子は放射性元素でもなければ、そのままの形で存続する。人間などもいろいろな分子を食べ物として体に取り入れる。そして死亡した後ではそのような新陳体謝が行われなくなるが、分子そのものはなくなってはいない。それが人間としての個体を形成してもいないし、死んでしまえば意識もなくなるのでその個人としての存在はなくなるが。

人は人から忘れられたときに死ぬのだとかいうテーマをとりあげた、お笑いの漫才を最近テレビで見たが、それはそうかもしれない。これはだから人間の身体的の死とはちがったものの見方を与えるものであろう。

生きるということに関しては自分の子どもが生きている間は自分のDNAを幾分かは受け継いだ自分の一部が生きているという考え方もできようか。

子どもはしかし、自分自身とはまったく違った存在であって、一部は受け継いでくれてはいるが、それはごく一部にしかすぎない。


「失敗学」と武谷三男

2011-06-11 11:43:42 | 科学・技術

福島原発事故の検証委員会の委員長に畑村さんがなった。彼は「失敗学」の提唱者だという。彼のオリジナリティを認めないわけではないが、その哲学の大部分はすでに武谷三男の「安全性の哲学」の中にその大要は含まれていると思う。

日本では始めてそのことを言った人のことを忘れてはないのかもしれないが、無視する傾向がある。別に畑村さんがそうだと言うわけでないが、どうもそういう傾向がある。

福島の原発事故で IAEA  (Inetrnational Atomic Energy Agency) の事故調査団が来日して、原子力安全保安院が通産省に中の機関であり、通産省の中には原発とか一般に原子力を推進しようとする機関が混在するのはおかしいのではないかとの指摘があった。

少なくとも原子力安全保安院は通産省とは独立の機関でなくてはおかしいという至極当然の指摘がされた。

だが、これはもう口をすっぱくして武谷が繰り返していったことではないか。それをいまさら、国際的な調査団に指摘されてようやくそういう機構を検討するとは遅きに失するではないか。まあ、そういう普通のことがこういう大事故の後でないとすんなりと通らないというところに日本の政策の問題がある。

原発推進の側にあり、そのことで参議院議員になった元東京電力副社長だった方が、反原発の方で尊敬できる人は高木仁三郎氏だけだと新聞のインタビューに語っておられたのを見ると反原発を真剣に議論してきた人は10人はいないとしても5人以上はいるのに彼は何を聞いているのだという気がしたものだ。

もちろん、彼の立場からでも高木さんは無視できなかったということであろうと思うが、学問的にもしっかりした人は他にも安斉育郎さんとか少なくとも数人はいるのに、それらの人は全く無視するのが自分の立場を守るには大切なのであろう。


関心の拡散

2011-06-10 11:32:04 | 日記・エッセイ・コラム

いつも困難なことに対面したときに普通の優れた人なら、なんなく解決するようなことでもわたしには解決できないことが多い。そうすると当面の困難に対面できず困難の場面を拡げてしまう傾向にある。

それで困難を解決できればそれでいいのだが、結局困難の解決ができないで棚上げとなることが多いから困ったものである。

ともかく、困難の拡大がいい場合もあるだろうが、よくない場合が多い。困難についてその局面に収めることができる人はある種のタレントをお持ちなのだと思う。

物理学者は一般に困難の対処を局面に収めてなんとかすることが必要なのではないかと思う。もちろんこれはとても才能のある方であれば、根本的にすべてを変えるという気力と根気をもつような方もおられるのであろう。

本当はそういう方が構想とかの雄大さにおいてすばらしいのだが、そういう方々は少ないと思われる。そうだとすると適当に困難を押し留めてというか拡大せずに解決することが普通の物理屋の腕ということになる。

ところが数学者はすぐに一般化することを好む。もっとも物理学者でも益川敏英氏などは大抵一般化したほうが個別なレベルにいるよりは困難の解決がしやすいと言っていたと思う。

そういえば、いつもいろいろなことを私に教えてくださるNさんなども一般化したときにはということにも関心がおありのようである。ということは優れた物理学者は自在に、または臨機応変に、困難の局面を拡げないでいたり、または拡大してみたりすることができることが優れた素質となっているのであろう。


cbezierが使えない

2011-06-09 11:30:51 | デジタル・インターネット

昨日、cbezierコマンドで3次曲線を描こうとしたが、未定義というエラーがでた。使い方がわるかったのかもしれないが、理由がわからなかったので、qbezier(2次のBezier曲線)をつかって3次曲線を描いた。

x>0 と x<0 の部分にわけて描いたが、どうもうまく描けないので、結局4つの部分に分けて描いた。そうしないと山と谷が思ったほど高くなったり、深くなったりしなかったからである。

4つの部分に分けて描くと、ちょうどうまく描けたと思う。きちんと調べれば多分誤差はあると思うが、いくつかの重要な点はちゃんとそこを通るように図を描けている。

これで、一番難しいと思われた図が描けたのであとはそれほど面倒ではない。やれやれ。


cbezier曲線

2011-06-08 11:00:59 | デジタル・インターネット

昨日、latexでcbezier曲線(3次のBezier曲線)を描こうとしたが、どうもどこかで間違ったらしくうまくいかなかった。

もっともパソコンの前の狭いスペースでちょこちょこと3次曲線の点の位置とその接線の方程式を計算したのがいけなかった。

もっと広い机の上で、紙のスペースも十分とってきちんと数値計算をしなかったのがいけないのだろう。picture環境で3次曲線を描こうとしてその3次曲線を2つの部分に分けて描こうとしたのだが甘かった。

昨日失敗したので、今日はそこのところを直して再度挑戦したいと考えている。その他の描かなければならない図は直線または2次曲線なのでそれほど難しくはないと考えている。

この図は数学・物理通信第8号のためで、実は7号と同時発行のつもりだったが、元の原稿をこの8号に取り込んでみたら、図の大きさがおかしくなってしまい、どうしていいかわからなくなったので、結局picture環境で描き直すことを決心したのである。

決心はしたもののいつも図を描く気持になるためには時間がかかる。それで一日延ばし、二日延ばしとしてきたのだが、昨日とりかかろうと決めた。しかし、そのしょっぱなの出鼻をくじかれた。

wikipediaによれば、Bezierというのはフランスのルノーかどこかの自動車会社に勤めていた技術者かデザイナーらしい、このBezier曲線のことを知ったのは昔の私の卒論生が関心をもっていて、彼が口にしていたことがあったので、それでBezierの名を知った。

以前にこの曲線はどんなものか少し調べたことがあって、そのノートをつくったはずだが、どこにいったかわからない。

いまは単にBezier曲線を処方に従って描くだけなのであるが、どうもその処方にそわなかったらしいということだけはわかっている。さて今日は解決できるだろうか。


インタビュー記事の作成

2011-06-07 12:02:26 | 物理学

物理学者のYさんのインタビューをいま文章にしている。

このインタビューは2009年10月に行ったものだが、そのままにしてあった。そのテープを起こして文書にしている。

3つのテープに録音していたのだが、そのうちの1つがどこかにわからなくなり、あとの2つをまとめて文書化していたら、3つ目が出てきた。

その3つ目というか実は2番目のテープが行方不明だったのをいま起こしている途中である。

例によって、私の根気があまり続かないので、気の向いたときだけテープ起こしをするという風なので作業はあまり進まない。

もしできあがったら、素粒子論研究の電子版に投稿するつもりである。しかし、現在まだ健在な方についての話があるので、どこまでその話が出せるだろうか。

生きておられる方のことでいいことはそのまま載せられるが、幾分negativeな評価なら、そのまま載せることははばかられるであろう。そこらへんが難しい。

もっともそこを率直に載せる方がインタビューとしては生き生きとしていいのだが、ちょっとはばかられるところもある。特にその後のその批評をされた方がある程度その評価を挽回するようなところがあれば、その話を付加すればいいのかもしれない。

この辺の事情はインタビューをしたYさんの判断に任せるしかない。


気落ちする

2011-06-06 15:07:49 | 日記・エッセイ・コラム

高校代数の範囲のe-Learningのコンテンツに自信ありみたいなことを先日このブログに書いたような気がするが、土曜日に久しぶりに機会があって見直したら、あまり新味がないように思えて気落ちしてしまった。

私はそういうちょっと自信過剰と気落ちの間をいつも揺らいでいる。もうちょっといいものを書いたつもりだったが、少なくとも本文はあまり新味がないことを発見してしまったのだ。これでは誰も評価してもらえないのも仕方がないとまで思うようになった。

雑談と問題の中にわずかな新味を見つけるくらいである。もっとちゃんとした新味を持った内容は書けなかったのだろうかと自問自答しているが、回答はない。特にコンテンツの前半部がおもしろくない。これは仕方がないともいえるが、やはり自分の実力のなさに起因するものであろう。

もっともどの本を見ても新味のあるようなものはあまり見かけないので、これは一人私の問題でもないのだが、それにしてもなんとかならないのかと思ってしまった。


宇宙人の発想

2011-06-06 12:51:37 | 日記・エッセイ・コラム

妻の知人が妻を評して宇宙人だと言ったという。

直接には妻のことを指すということではないが、血液型がB型の人は宇宙人だと言ったらしい。妻も私も実はB型である。

妻は発想がおもしろく、普通の人が思いつかないようなことをいうので、宇宙人といわれたのであろう。その言い方に妻が感心していたが、それは妻の「知人の発想ではないよ」と今朝、妻に話をした。

これは鳩山前首相夫人が「宇宙人とか言われた」とかの週刊誌の見出しを見ていたからである。それにつけても現在の首相退陣の要求がどうしてなのかわらかない。東日本被災者のためにと言って、内閣不信任を出すことなど常軌を逸していると思う。

ところが我が家の宇宙人がいうには、菅首相は理系だから他の政治家は科学的な知識について、「そんなことも知らないのか」といわれたりして、嫌なのではないかという。

これはひょっとしてあたっているのではないか。大多数の政治家は文系出身者である。ところが理系の出身の人には文系の人がコンプレックスをもっていることがある。

これは実話だが、あまりご本人たちを傷つける意図はないので、A, Bさんとしておこう。Aさんも Bさんもお二人とも法律家であるので、きわめて優秀な方々である。

二人は高校の同級生であるが、あるときAさんがBさんに向かって曰く、「お前は数学ができなかったからな」、それに対してはBさんからは直接の返答はなかった。

ところが、あるとき、この二人そろって外国旅行に出かけたが、Aさん、部屋にキーを忘れたのかなと思ってホテルのフロントでもごもご言っていたら、後から帰って来たBさん、フロントマンに向って“Key, please”と一言ったら、キーを渡された。

ということでこの勝負はA, Bさんの引き分けとなった。これは多分Aさんが妻に笑い話として話したことなのであろう。

ちなみにこのA, Bさんともに同じ大学の出身でもあるが、Aさんは理工系の学部の出身で、Bさんは文系の学部の出身である。二人の仲がとてもよく、もちろんけんかなどはしていない。


武谷三男の未収録エッセイ

2011-06-04 10:56:58 | 学問

武谷三男の主な論文*やエッセイは「武谷三男著作集」とか「武谷三男現代論集」にほとんど入っている。しかし、これらの著作集に入っていないものも私の手元にかなりある。

それは「現代論集」以後に書かれたエッセイであったり、論文であったり、インタビュー記事であったりする。

武谷三男は1911年の生まれなので、2011年の今年は生誕百年にあたる。それで、二つの著作集に載らなかった、エッセイ等で現在は市販されていないものを編集して出版しておくべきではないかと考えている。

そいうことを言ってもそれらを特定し、編集して書籍として出版するというのはとても骨が折れる仕事である。どういうエッセイがあるのかを調べようとして昨日「武谷三男著作目録(第3版)(素粒子論研究(電子版)」を取り出してきた。

この取出しができれば、つぎにそのエッセイの載っている書籍は大抵私がもっているので、それのコピーをとり、出版社に送り、出版の可能性を聞くというプロセスをとるということになる。

また、雑誌には出たが、単行書には収録されていないものもある。それのコピーもとることが必要である。

(注) ここの論文*は物理の研究論文ではない。いわゆるnontechnical papers (F. J. Dysonの用法)


数学・物理通信7号

2011-06-03 12:03:12 | インポート

数学・物理通信7号を6月1日に発行した。最後になって自分の書いた箇所をもう一度点検したら、いくつかのケアレスミスが見つかったのでそこを修正してから、発行となった。

夜の8時近くになって私の友人・知人とそれ以外のNさんの友人・知人にメールを発送して一応の発送終了となった。ほとんど反応はないが、武藤先生からメールが入ったのが新しかった。

それと海鳴社の T さんからもメールが入っていた。また、原稿の催促かと身を硬くしてメールを開けたら、ちょっといままでと違った反応だった。まだ原稿の請求を諦められた訳ではなかろが。

今回は N さんと I さんの長い論文があったので、全体で30ページとなった。20数ページをめざしているのでちょっとページ数が多かったかもしれない。

いつものごとく T さんから受け取ったとの連絡があった。この T さんはある大学の学部長という要職にあり多忙なはずだが、メールをこまめにちゃんと送ってくるという誠にまめな方である。ちょっとマネができない。

ともかく地道に誰からもほめてもらえなくても続けていることが大切だと思っている。もっともドイツ語のクラスの講師の R 氏に言わせるとドイツではfleissig(勤勉な)ということはほめ言葉ではなく「勤勉だが、業績が上がらない」という風に使うので、ほめ言葉ではないとのことである。

なかなかそういう風に考えると難しい。


戦後日本の数学教育改革

2011-06-02 12:38:37 | 数学

松田信行さんの「戦後日本の数学教育改革」(明治図書、1981)をアマゾンコムの古本で手に入れた。

この本はどうしたものか、古本市場では結構値段が高くて、手に入れられなかったのだが、格安の値段で手に入れた。

もっともこの本は消してあったが、透かして見ると東京都東中野区立図書館の所蔵であったものだとわかった。

朝永の量子力学IIの英訳を古書で手に入れたときにどこかの外国の会社の研究所の蔵書であったことがあったので、蔵書を古本業者に引き取らせることがあるのだなと始めて知ったのだが、そういうことが日本でも普通に行われているらしいとは最近になってそういう書を手に入れることになりはじめて知った。

この本がなぜ古本市場で5,000円以上の値がつけられているかはわからないが、古本業界は意外と本の情報に詳しいのだと思っている。

さて、昨夜手に入れたばかりなので、終章の『「あとがき」に代えて』しか読んでいないのだが、これは二つの松田さんの論考と言っていいかと思う。

それらは「小倉金之助と数学教育」と「遠山啓と数学教育」とから成り立っており、いずれも優れた論考と思った。ただ、この二つについて、この書に収録した時点では書き換えたいところとか、削除したいところもあるが、そのまま載せたとあった。

それについてひとこと言わせてもらえば、私なら意に満たないなら、書き換えたかそのままにしても脚注等のコメントをつけ加えるかをしただろう。それが読者に親切というものであろう。もっとも私自身はこの二つの論考を読んで違和感を感じたところはなかった。

だから、松田さんのことわりの前書きはもしかしたら、彼の謙遜を示しているのかもしれない。それならしかたがないが、本当に書き換えたり、削除したりしたかったのなら、どしどし最新の見解に書き換えるべきであろう。

小口鈴実さんの「こども、ばんざいだ!」(数学教育研究会、2009)がこの松田さんの本を参照しているかなと思ってこの本の参考文献を調べてみたが、どうもあげていないようだ。

小口さんには悪いが、彼女の本を読んで力作にはちがいがないが、どうも欲求不満になるような気がしたことを覚えている。そういう点が松田さんの本にはない。

高知であった数学教育協議会の全国大会の会場で一度だけ、松田さんを見かけたことがある。痩身の白髪交じりの方であったように思う。松田さんも数年前に亡くなったことは新聞で読んだ。


節電

2011-06-01 11:30:46 | 日記・エッセイ・コラム

このごろは急に全国で節電ムードである。節電をして悪いことはなにもない。確かにオフイス等で外出するときに自分のパソコンのスイッチを切るとかはだれでもできることだし、するべきだろう。

だが、スイッチを入れたりきったりするとコンピュータは故障が多いとも聞く。だから、少しくらいの電力消費量なら、スイッチのオンオフはなるたけしないほうがいいのだと昔聞いた気がする。

車を運転していて、交差点でエンジンを切って待つなどということをする人はあまりいない。私にしてもときどき交差点でエンジンを切るところは一箇所しかない。ここは待ち時間が比較的長いところである。

叔父が昔バス会社に勤めていて、信号のところでバスのエンジンを切れとバスの運転手に指示をしてガソリンとか軽油の消費量を減らしたということで、会社からほめられたことがあったが、こういうことは一般にはできない。運転手にしたって、小うるさい上司がいるからそれに従っただけであったろう。

普通に車は交差点で待っているときにエンジンを切ったりはしていないと思う。少なくとも私はそういうことをしていない。

私だけではなく、一番心ある人が嘆いているのは国内いたるところにある、ドリンクの自販機であろう。これは飲み人がいようがいまいが、ドリンクを電気で温めたり、冷やしたりしている。

これは資本の論理で飲料販売会社は飲物が売れればいいのだろうが、心寒くなるような愚挙であると思う。さて、世の識者の方々はどう思われているのだろうか。