田中克彦氏は名著『ことばと国家』(岩波新書)の著者であるが、優れた言語学者だと思う。ところで、その彼が岩波書店の要請に応えて書いたのが標題の本である。
安孫子誠也氏の「広重徹の武谷三段階論批判」にこの『スターリン言語学』のことが出ていたので、一度読んでおこうということで古書で購入した。
4章の「スターリン言語学と日本」と2章の一部を読んだだけであるが、なかなかこの書が興味のあるであることがそこを読んだだけでも窺える。
安孫子氏から彼の論文「広重徹の武谷三段階論批判」(物理学史ノート No.11) のコピーを送ってもらった身としてはちょっと安孫子氏の論に異論を立てるのは申し訳がないが、それでも異論を唱えたい。
確かに後世からみて、「スターリンの独裁についていい」という人はいないが、だからと言ってこの『スターリン言語学』と共通の業績を武谷三男が誇っているのは赤面するようなことであるというのはやはりおかしいと思う。
それに私自身は武谷が『スターリン言語学』と共通の業績を誇っているとは思っていない。
また、毛沢東の『実践論』や『矛盾論』についての非難も同様である。確かに文化大革命は中国の近代化を30年遅らせたと後世の私たちはいう。
だが、だからこれらの毛沢東の著作がおかしいというのとは話がちょっと違う。「ほんとうにこれらの本を読んでそんなことを書いたのですか」と問いただしたくなる。この二つはあまり長くなく、岩波文庫に入っているので、2回ぐらいは学生の頃に読んだが、なるほどとそのときに感心をしたものである。
こういうことを書くとどこか別の文脈で同じようなことを言ったり、聞いたりしたようにも思うので、それとどう違うのだと問い詰められそうな気がするけれども。
武谷三男本人の言では、毛沢東のこの二つの著作はあまり教訓じみていて好きにはなれないとの評をどこかで読んだ。それでも毛沢東の矛盾の概念の分析については今でも学ぶべきところがあると思う。
毛沢東自身は『矛盾論』よりも『実践論』の方が基本的と言っていたらしいが、私には『矛盾論』の方が面白かった。それは『実践論』は普通の唯物弁証法のことを書いた書と主張が同じではないかと思ったので、それほど新味を感じなかった。
『「スターリン言語学」精読』の全体を読むことができたらいいのだが、息切れしないかと心配である。それに私にはするべき仕事が多すぎる。
(2011.7.3付記) 先日から読んだ箇所が増えた訳ではないが、問題は社会主義と言語であり、どうも正統的な社会主義は一般には民族なりその言語なりを統一するような傾向にあったのだが、スターリンの主張は民族の自決やその言語の独立を推奨し、保障するようなものであったということらしい。
現在なら社会主義は必ずしも理想でもないといわれるかもしれないが、スターリンにはその二つの相反はうすうすは感じられたであろうから、民族の自立とその言語の尊重を主張した『スターリン言語学』は特異な位置にある。
そこら辺の特異さを田中克彦さんは敏感に感じていたのだろう。この書はなかなか興味深々であると思う。そのことを安孫子氏は知っておられた上での上記の発言ならば私にはちょっと頂けないと思う。