前に「遠山啓と武谷三男」という題でブログを書いたことがあるので、今回は「その2」とする。
私が「日本の古本屋」古本の出品をときどきチェックしている人に武谷三男と遠山啓がいる。
そのチェックに最近引っかかったのが、岩波のPR誌「図書」の遠山についての記事(2009年11月号)で、仕事場の書棚を見に行ったら、その当該号があった。
それは野崎昭弘さんの「遠山啓と数学教育」というテーマのエッセイであった。これは前に多分読んだのだと思うが、読んだ記憶が残っていなかった。
2009年は遠山の生誕100年であった。それで岩波書店が野崎さんにその生誕100年を記念して寄稿をお願いしたのだろう。
野崎さんは生前遠山に会ったことはなかったと書いている。電話で多分雑誌「数学セミナー」の原稿を遠山さんから頼まれたらしいが、数値計算のことに関係していたので、専門ではないからと断ったと書いている。
(注: 遠山さんと矢野健太郎氏とは雑誌「数学セミナー」の共同編集人であった)
その後、野崎さんが数学教育協議会の委員長を引き受けたから、面識があったかと思ったがそうではなかったらしい。
私は野崎さんのような有名人物ではないし、二人きりで遠山さんに会ったことはないが、松山で数教協の全国大会があったときに松山市民会館での講演を聞きに行った。講演の後で、遠山さんに質問までした。
そのときの話は競争原理を教育の分野から追放しようという、遠山さんらしい主張であり、教師は「点眼鏡」をはずそうという趣旨の話であった。
そのころは私はまだ数学教育にはそれほど関心がなかった。これは1978年のことではなかったかと思う。この次の年の1979年に70歳で遠山さんは意外に早く亡くなった。
その後、私は1985年くらいから教育への関心が大きくなってきて、愛媛県の数学教育協議会の学習会に顔を出すようになった。もっとも熱心な出席者ではなく、気が向いて時間がとれるときという制限がある。
武谷についてだが、1965年だったか私が大学院生のころにO教授から「誰が集中講義に来てほしいか」といわれて「武谷さんはどうですか」と言ったら、その意見が取り入れられて、立教大学から集中講義に来られた。
「物理学の方法論」という題の講義だったが、実際にされたのは「ケプラーがどうやって火星の軌道を決めたか」という話であり、あまり方法論とはとかいうような大上段にかぶった話ではなかった。
その直後くらいに、「科学入門」(勁草文庫)が出されたが、そのPRもさりげなくされたと思う。
つぎに、武谷さんを見かけたのはその後1968年の夏だったか、それとも、もう秋だったかに京都大学の基礎物理学研究所に研究会か何かで来られているのを基礎研の共同利用事務室で見かけた。
白いワイシャツの袖を腕まくりしており、そのアンダーシャツが長袖でいかにもアンバランスだったのを覚えている。
50年くらい昔はワイシャツは長袖で夏になると、腕まくりして半袖風に折り返して着るというのが粋という感じだった。
今では夏には半袖のシャツを着るのが普通になっているが。私などは武谷さんとは親子ほど歳が違うのでもう大学院を出る頃には半袖のシャツを着ていた。
遠山も武谷も学校嫌いだったということは前に書いたし、文学好きであることも書いた。遠山は将棋が好きであり、将棋をよくしたらしい。一方、武谷は文学のみならず、音楽にも絵画や彫刻、演劇にもなかなか造詣が深かったらしい。
伝記的な材料としては武谷は自分の小さい頃からのことや研究についても回顧録が出ており、材料に事欠かないのだが、人間的にも魅力的だとの見方は、特に女性からされていたらしい。
武谷がご家族からどう思われていたかはわからないが、鶴見俊輔さんによれば武谷さんのそういう側面を非常に好んでいた人がおられることは間違いがない。
ただ、物理学者の間ではその同僚たちに対して武谷が研究上で批判が厳しかったことから、かつて長期間グループを組んで研究をしていた方々からは反感があっただろうということは想像に難くなく、その点で武谷の評価はそう単純ではない(もちろん、これらの研究者の方々からは武谷に対する反感の声は直接には記録に残るように語られてはいないが)。
もっとも晩年に武谷と研究を共にされたN教授とかF教授はその範疇には入らないであろう。
彼の伝記を書きたいなどと私が言ったとき、哲学者の鶴見俊輔さんはいまにでもそういう武谷ファンの女性を紹介してくれそうだったが、なかなかその気になれなくて鶴見さんのご好意を無にしている。
遠山と武谷は共に九州出身であり(2024.9.21注)、遠山は幼少時には朝鮮に住んでいたが、父親の死後に熊本に帰り、その後、福岡で旧制高校に行った。武谷は小学校から高校までを台湾で過ごして、大学は京都大学に入った。
一方、遠山は東京大学の数学科に入ったが、ある事情で退学をして、数年後に東北大学数学科に入りなおし、そこを卒業した。二人とも東京に住んだが、権力に反骨で、体制に批判的な人生を送った。
(2012.3.9 付記) 上で遠山が東大を退学したのを「ある事情」とのみ書いたが、もうその事情をここで書いてもいいだろう。
その当時の東大の数学科の試験で自分の教えた通りに解答を書かないと単位を出さないという教授がおられて、そのことは先輩から聞いて遠山は知っていたのだが、思わず試験のときに自分流の解答を書いてしまったらしい。その科目は必須科目であったから、あと何年数学科に在学しても卒業できないので、その教授の定年の年に退学をしたという。
退学をするときに尊敬していた高木貞治教授には「退学します」という挨拶に行ったとはどこかで読んだ。
また、その合格させなかった教授のイニシャルは高木さんと同じTであることはわかっている。遠山が東大嫌いであったかどうかは知らないが、そういういきさつがある(2023.11.23 注)。
ちなみに湯川秀樹博士の自伝『旅人』(朝日新聞社)に高校で、先生の教えた通りに解答しなかったために、その解答が間違っていたわけでないのにバツにされて、立体解析幾何学の点数が60点代だったことがあるという記述があった。
湯川博士が数学者にならなかったのはそのせいもあるかと思われる。
(2015.11.28注) 遠山は熊本県が父親の郷里だが、武谷は山口県光市が父親の郷里だという。坂田昌一の祖先の郷里は山口県の柳井市だったらしい。少なくとも坂田のお墓は柳井市にあるという。