「因数分解の公式を忘れたら」という数学エッセイをいま書いている。
一昨日だったかその前くらいだったから書き始めて、およそ出来上がったと思ったら、また今朝の夢うつつの状態でその話を敷衍した方がいいのではと考えるようになって、今日午前中に仕事場に来る前にその続きの原稿を書いた。
数学を高校レベルにしろ、天下りに上から与えられたものとしてではなく、自分でいつでも再現できるものとして考えたいという気持ちがいつも強い。
これはそういうことを最近このブログでも書いたかもしれないが、ある因数分解の公式を忘れたために問題が解けなくなったという話を聞いたので、そのときにどうするのかということを考えた。
数学のよくできる人にはなんてこともないことが、不得意の人にはえらく大変なことに感じることがあるが、そういうときでもなんとかする方法はないか。それを示したいという気持が私にはある。
これは凡人の数学という観点である。凡人でも数学の達人のごとくできたら、いいのにと思う。数学はいつでも天下りで頭のよい人の教えるところにしたがわなくてはならないと考える必要はない。もちろんそれも程度問題であって、難しいことには大抵お手上げだが、それでもそういう風な数学の教え方がされるべきだと考えている。
数学の研究中は足場もあり、手がかりもあるのだが、それが完成してしまうとそれらの足場を取り払い、それを研究した自分がいかに頭がいいかということを示すかのように理論の筋だけを記述するという傾向が数学者にある。これは大切なのは事実であって、それをどのように考えたかは問題ではないという意識が働くのであろうか。
別に意地悪な考えではなくとも、そういう論理的にすっきりとした形で数学の論文は発表されるというのが、普通であるからだろう。
(2012.3.27付記) 「因数分解の公式を忘れたら」、どうするかというと基本的には「自分でつくる」ということになる。ところが自分でつくれるような人はもしかしたら、因数分解の公式を忘れてはいない人かもしれない。
私自身を省みてみると完全に忘れてはいないものの記憶が曖昧になって来ている。だから、このタイトルは私のような普通の人にとって、そう稀な例ではないだろうと思っている。