Natura non facit saltumとは何を意味するのだろうと長い間思っていた。
これはごく最近に終刊になった「素粒子論研究」の表紙の4隅に描かれた絵につけられたラテン語であった。他の3つは私がラテン語をまったく解しないにもかかわらずその意味は推測できた。
右上にはブドウか何かの果実の絵が描かれており、Natura est abundansとある。これは「自然は豊富である」と読める。これはエンゲルスかレーニンの言葉にでもありそうだ。
さらに左上はNatura est simplexとあり、みみずくかふくろうの絵が描かれている。これは「自然は単純である」というのであろう。これは湯川秀樹博士の科学的な信念であった。
彼の随筆にDiracか誰かの研究室を訪れたときに黒板に「自然は本来単純である」とチョークで書いたとかいうのがある。(ちなみに私にはふくろうとみみずくの区別はつかない)
さらに、左下はNatura est formositasとあり、孔雀と思われる絵が描かれている。これは「自然は美しい」というのであろうと推測ができた。これは上にも書いた天才物理学者Diracの信念であった。
なぜ、formositasが美しいを意味すると推測できたかというと、武谷三男が対談か何かで(『思想を織る』(朝日選書)であったかもしれない)台湾の英語名Formosaはポルトガル語のとても美しいから来ていると、書いていることを思い出したからである。それに、ここに描かれた孔雀の絵はその美しいことを示しているので、その推測はあっているであろうと思われた。
さて、最後の右下のNatura non facit saltumは何を意味するのかわからなかった。ところが「素粒子論研究」119巻4C号に小沼通二さんがその意味を書いてくださったのでやっとわかった。それによれば、「自然は飛躍せず」という意味だとある。
今朝、イタリア語辞典を引いてみたら、saltoという名詞があり、跳躍とか飛躍とかいう意味があった。(ちなみに小沼さんはすべて4つのラテン文に対応した英文を書かれている)。小沼さんはイタリア留学していたくらいだから、イタリア語ができる。
もっとも現代イタリア語はラテン語とは同じではないだろうが、それでも同じようなところもあろうか。形容詞にはsaltu・・・とかいうような語が現代イタリア語に残っている。それでなんとかようやく理解できたのであるが、どうも他の3つと比べてなかなか覚えられない。それでまた忘れてしまうかもしれない。
この「素粒子論研究」の表紙を描かれた河辺六男さんには彼の生前には親しくして頂いた。彼が湯川秀樹博士の著作目録をつくって「素粒子論研究」に載せたときには何回か別刷りを送ってくれた。その彼が亡くなって、趣のある版画の年賀状をもらわなくなってもう久しい。
世間的に河辺さんが知られているのは、ニュートンの『プリンキピア』(中央公論社)のラテン語からの訳者としてと、ボームの『量子論』(みすず書房)の訳者としてであろうか。
この最後の書は井上健、高林武彦、河辺六男、後藤邦夫の4名の訳となっているが、後藤邦夫さんと河辺さんとがもっぱら訳を担当されたと河辺さんは言われていた。