物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

今週は忙しい

2012-03-13 12:01:56 | 日記・エッセイ・コラム

なんだか今週は忙しい。昨日は2年ぶりに人間ドックの検診を受けたし、今日の午後は京都産業大学の名誉教授であるSさんがE大学の理学部に講演に来られるという。Sさんは松山の出身である。

また、明日は子どもの結納で朝から高知に出かける。また、その後、数日は子どもとそのパートナーが松山に滞在する。子どもが帰郷することはここ10数年なかったので、妻は張り切ってどこへ連れて行こうかと考えているらしい。

何日松山に滞在するつもりかまだ詳しくは聞いていないが、どこかに出かけるところなら、妻は自分たちで出かけてよく知っている。

だから、はじめ3月15日木曜日に予定していた数学・物理通信2巻1号の発行が次週以降となった。発行人にとっては発行するまではなかなかプレッシャであるので、できるだけ早く発行したいのだが、しかたがあるまい。

いわば淡々とした日常生活の「け」から「はれ」へといっきに移行する感じである。私などはいつも修業僧のようなひっそりとした生活をしているのだが、今週だけは違う。


Natura non facit saltum

2012-03-12 16:05:39 | インポート

Natura non facit saltumとは何を意味するのだろうと長い間思っていた。

これはごく最近に終刊になった「素粒子論研究」の表紙の4隅に描かれた絵につけられたラテン語であった。他の3つは私がラテン語をまったく解しないにもかかわらずその意味は推測できた。

右上にはブドウか何かの果実の絵が描かれており、Natura est abundansとある。これは「自然は豊富である」と読める。これはエンゲルスかレーニンの言葉にでもありそうだ。

さらに左上はNatura est simplexとあり、みみずくかふくろうの絵が描かれている。これは「自然は単純である」というのであろう。これは湯川秀樹博士の科学的な信念であった。

彼の随筆にDiracか誰かの研究室を訪れたときに黒板に「自然は本来単純である」とチョークで書いたとかいうのがある。(ちなみに私にはふくろうとみみずくの区別はつかない)

さらに、左下はNatura est formositasとあり、孔雀と思われる絵が描かれている。これは「自然は美しい」というのであろうと推測ができた。これは上にも書いた天才物理学者Diracの信念であった。

なぜ、formositasが美しいを意味すると推測できたかというと、武谷三男が対談か何かで(『思想を織る』(朝日選書)であったかもしれない)台湾の英語名Formosaはポルトガル語のとても美しいから来ていると、書いていることを思い出したからである。それに、ここに描かれた孔雀の絵はその美しいことを示しているので、その推測はあっているであろうと思われた。

さて、最後の右下のNatura non facit saltumは何を意味するのかわからなかった。ところが「素粒子論研究」119巻4C号に小沼通二さんがその意味を書いてくださったのでやっとわかった。それによれば、「自然は飛躍せず」という意味だとある。

今朝、イタリア語辞典を引いてみたら、saltoという名詞があり、跳躍とか飛躍とかいう意味があった。(ちなみに小沼さんはすべて4つのラテン文に対応した英文を書かれている)。小沼さんはイタリア留学していたくらいだから、イタリア語ができる。

もっとも現代イタリア語はラテン語とは同じではないだろうが、それでも同じようなところもあろうか。形容詞にはsaltu・・・とかいうような語が現代イタリア語に残っている。それでなんとかようやく理解できたのであるが、どうも他の3つと比べてなかなか覚えられない。それでまた忘れてしまうかもしれない。

この「素粒子論研究」の表紙を描かれた河辺六男さんには彼の生前には親しくして頂いた。彼が湯川秀樹博士の著作目録をつくって「素粒子論研究」に載せたときには何回か別刷りを送ってくれた。その彼が亡くなって、趣のある版画の年賀状をもらわなくなってもう久しい。

世間的に河辺さんが知られているのは、ニュートンの『プリンキピア』(中央公論社)のラテン語からの訳者としてと、ボームの『量子論』(みすず書房)の訳者としてであろうか。

この最後の書は井上健、高林武彦、河辺六男、後藤邦夫の4名の訳となっているが、後藤邦夫さんと河辺さんとがもっぱら訳を担当されたと河辺さんは言われていた。


最近の読書から

2012-03-10 13:16:36 | 学問

最近、読んだ文であるが、川上武著「医学と社会」に掲載されている、「科学方法論と看護学」の川上さんと武谷三男との「看護学雑誌」に掲載された座談の記録がおもしろかった。

これは1968年6月号に掲載された座談記録であり、武谷現代論集「市民と政治」に収録されている。しかし、論集の方では読んではいないと思う。もっとも私は読んでも何を読んだかすぐ忘れてしまう方だから、あまり読んでないということが確実だとはいえない。

朝永振一郎氏が「科学の研究は科学方法論は目的ではなく、物理学の場合には自然という検証の対象があるから最後は自然に聞けばよい」と折に触れて語ったが、これは武谷も同じ見解であることがわかった。ものごとには対象やそれに関する問題があれば、それを解決するための方法が有用であろうという。あくまで当面の問題を解決するための方法論であり、対象とか問題から離れた方法論はないという。

当然のことといえば当然である。だが、方法論が目的化することがままあったのではと武谷について示唆されることがあるが、少なくともこの座談記録からはそうではないことがわかる。解決が難しい問題があれば、「概念の分析からはじめよ」と武谷はいう。

なんでもまずは具体的な問題の解決を図ることから始まるという。方法論は対象を離れて独立に一人歩きすることはないという。

「看護学雑誌」というのは看護師さんによって読まれている雑誌であろう。現在も発行がされているのかどうかは知らない。だが、看護師さんたちにもわかるようにとの配慮がされているのだろうか。読んでわかりやすかった。


気が滅入る

2012-03-09 17:28:56 | 日記・エッセイ・コラム

このところの天候の悪さで気が滅入る。雨が降っていなくとも雲が垂れ込めていて、陰鬱である。

3月になったので、春がもうそこかと思うが、寒さはまだまだである。もっともまだ寒いのだがエアコンの暖房を入れなくてもそれほど気にならなくなったので、やはり少しづつではあるが、気温が上がってきてはいるのだろう。

そういえば、3.11が近づいてきている。この日もラジオを聞いていたが、途中から地震と津波の警報ばかりになり、どうも災害が大きそうだったので普段は見ないテレビをつけてみたら、すごい津波がreal timeで中継放送されていた。これは15時15分ぐらいのことである。

ヘリコプターからの津波が陸地を襲う映像であったが、これはニュースとか他の放送でいやというほど繰り返し放映された。現実ではあるが、あまり何度も見たくはない映像である。

ドイツの冬は厳しくて首から上が雲の中にあるような陰鬱な天候が続く。それでその鬱憤はドイツ人なら誰でも知っているであろうか。カーニヴァルの前には少し気がおかしくなっている人も見受けられるという。カーニヴァルのどんちゃん騒ぎがそのウップンのいくらかを吹き飛ばしてくれるのだという観察をする人もいるくらいである。。

まさにそのような気のするこの1,2週間である。


障碍の克服

2012-03-09 12:39:56 | デジタル・インターネット

昨日、このブログでlatexのトラブルについて愚痴ったが、昨日の午後その障碍が克服された。それで、昨日は数学・物理通信の2巻1号の編集が進んだ。まだ終わったという段階ではないが。

昨日ブログを書いたときは本当に心が重かった。子どもにSOSのメールを入れたが、簡単に返事は来そうになかったし、どうしていいかわからなかったのだ。

これはlatexの障碍と書いたが、本当はWinshellというソフトの障碍であった。それで私のパソコンにlatex関連のソフトをインストールしてくれたMさんが以前に持ってきてくれたコピーを取り出して見ていたら、どうもWinshellのマニュアルを読めば、その障碍の克服がわかるかもしれないと考えた。

それでインターネットでWinnshellのサイトにアクセスして、そのマニュアルをプリントして読んだら、なんとか克服法がわかりそうになった。それでいろいろやったが、当のファイルは元に戻ってくれない。ファイルの復活は諦めて他の作業していなかったファイルを見てみたら、なんとかすべて日本語の部分が元に戻っていた。

それで当のファイルは諦めて廃棄をすることにして、送ってくれたファイルをもとに編集を再開してなんとか形ができた。

ただ、共同編集者のNさんの投稿原稿の気にかかるところを修正することだけが残った。それは今後の作業にかかっている。3月15日の発行を予定している。


遠山啓と武谷三男2

2012-03-08 15:00:04 | 学問

前に「遠山啓と武谷三男」という題でブログを書いたことがあるので、今回は「その2」とする。

私が「日本の古本屋」古本の出品をときどきチェックしている人に武谷三男と遠山啓がいる。

そのチェックに最近引っかかったのが、岩波のPR誌「図書」の遠山についての記事(2009年11月号)で、仕事場の書棚を見に行ったら、その当該号があった。

それは野崎昭弘さんの「遠山啓と数学教育」というテーマのエッセイであった。これは前に多分読んだのだと思うが、読んだ記憶が残っていなかった。

2009年は遠山の生誕100年であった。それで岩波書店が野崎さんにその生誕100年を記念して寄稿をお願いしたのだろう。

野崎さんは生前遠山に会ったことはなかったと書いている。電話で多分雑誌「数学セミナー」の原稿を遠山さんから頼まれたらしいが、数値計算のことに関係していたので、専門ではないからと断ったと書いている。

(注: 遠山さんと矢野健太郎氏とは雑誌「数学セミナー」の共同編集人であった)

その後、野崎さんが数学教育協議会の委員長を引き受けたから、面識があったかと思ったがそうではなかったらしい。

私は野崎さんのような有名人物ではないし、二人きりで遠山さんに会ったことはないが、松山で数教協の全国大会があったときに松山市民会館での講演を聞きに行った。講演の後で、遠山さんに質問までした。

そのときの話は競争原理を教育の分野から追放しようという、遠山さんらしい主張であり、教師は「点眼鏡」をはずそうという趣旨の話であった。

そのころは私はまだ数学教育にはそれほど関心がなかった。これは1978年のことではなかったかと思う。この次の年の1979年に70歳で遠山さんは意外に早く亡くなった。

その後、私は1985年くらいから教育への関心が大きくなってきて、愛媛県の数学教育協議会の学習会に顔を出すようになった。もっとも熱心な出席者ではなく、気が向いて時間がとれるときという制限がある。

武谷についてだが、1965年だったか私が大学院生のころにO教授から「誰が集中講義に来てほしいか」といわれて「武谷さんはどうですか」と言ったら、その意見が取り入れられて、立教大学から集中講義に来られた。

「物理学の方法論」という題の講義だったが、実際にされたのは「ケプラーがどうやって火星の軌道を決めたか」という話であり、あまり方法論とはとかいうような大上段にかぶった話ではなかった。

その直後くらいに、「科学入門」(勁草文庫)が出されたが、そのPRもさりげなくされたと思う。

つぎに、武谷さんを見かけたのはその後1968年の夏だったか、それとも、もう秋だったかに京都大学の基礎物理学研究所に研究会か何かで来られているのを基礎研の共同利用事務室で見かけた。

白いワイシャツの袖を腕まくりしており、そのアンダーシャツが長袖でいかにもアンバランスだったのを覚えている。

50年くらい昔はワイシャツは長袖で夏になると、腕まくりして半袖風に折り返して着るというのが粋という感じだった。

今では夏には半袖のシャツを着るのが普通になっているが。私などは武谷さんとは親子ほど歳が違うのでもう大学院を出る頃には半袖のシャツを着ていた。

遠山も武谷も学校嫌いだったということは前に書いたし、文学好きであることも書いた。遠山は将棋が好きであり、将棋をよくしたらしい。一方、武谷は文学のみならず、音楽にも絵画や彫刻、演劇にもなかなか造詣が深かったらしい。

伝記的な材料としては武谷は自分の小さい頃からのことや研究についても回顧録が出ており、材料に事欠かないのだが、人間的にも魅力的だとの見方は、特に女性からされていたらしい。

武谷がご家族からどう思われていたかはわからないが、鶴見俊輔さんによれば武谷さんのそういう側面を非常に好んでいた人がおられることは間違いがない。

ただ、物理学者の間ではその同僚たちに対して武谷が研究上で批判が厳しかったことから、かつて長期間グループを組んで研究をしていた方々からは反感があっただろうということは想像に難くなく、その点で武谷の評価はそう単純ではない(もちろん、これらの研究者の方々からは武谷に対する反感の声は直接には記録に残るように語られてはいないが)。

もっとも晩年に武谷と研究を共にされたN教授とかF教授はその範疇には入らないであろう。

彼の伝記を書きたいなどと私が言ったとき、哲学者の鶴見俊輔さんはいまにでもそういう武谷ファンの女性を紹介してくれそうだったが、なかなかその気になれなくて鶴見さんのご好意を無にしている。

遠山と武谷は共に九州出身であり(2024.9.21注)、遠山は幼少時には朝鮮に住んでいたが、父親の死後に熊本に帰り、その後、福岡で旧制高校に行った。武谷は小学校から高校までを台湾で過ごして、大学は京都大学に入った。

一方、遠山は東京大学の数学科に入ったが、ある事情で退学をして、数年後に東北大学数学科に入りなおし、そこを卒業した。二人とも東京に住んだが、権力に反骨で、体制に批判的な人生を送った。

(2012.3.9 付記) 上で遠山が東大を退学したのを「ある事情」とのみ書いたが、もうその事情をここで書いてもいいだろう。

その当時の東大の数学科の試験で自分の教えた通りに解答を書かないと単位を出さないという教授がおられて、そのことは先輩から聞いて遠山は知っていたのだが、思わず試験のときに自分流の解答を書いてしまったらしい。その科目は必須科目であったから、あと何年数学科に在学しても卒業できないので、その教授の定年の年に退学をしたという。

退学をするときに尊敬していた高木貞治教授には「退学します」という挨拶に行ったとはどこかで読んだ。

また、その合格させなかった教授のイニシャルは高木さんと同じTであることはわかっている。遠山が東大嫌いであったかどうかは知らないが、そういういきさつがある(2023.11.23 注)。

ちなみに湯川秀樹博士の自伝『旅人』(朝日新聞社)に高校で、先生の教えた通りに解答しなかったために、その解答が間違っていたわけでないのにバツにされて、立体解析幾何学の点数が60点代だったことがあるという記述があった。

湯川博士が数学者にならなかったのはそのせいもあるかと思われる。

(2015.11.28注) 遠山は熊本県が父親の郷里だが、武谷は山口県光市が父親の郷里だという。坂田昌一の祖先の郷里は山口県の柳井市だったらしい。少なくとも坂田のお墓は柳井市にあるという。

(2020.12.4付記) 個人的には光市に行ったことはないが、大学時代の親友の出身地がこの光市であり、この親友は若くして亡くなってしまったが、光市と聞くと妙に懐かしく感じる。この光市も私の出身地の今治と同じく海岸の清松白砂がいいらしい。これは若くして亡くなった親友のH君の言であった。

(2023.11.23 注)上に「合格させなかった教授のイニシャルは高木さんと同じTであることはわかっている」と書いたが、これはまちがっているのかもしれない。遠山さんには坂井という教授のことを書いたエッセイがあり、この教授のご機嫌を損ねたことがこれほど祟るとは思わなかったと書いた文章がある。

(2024.9.21注) 上に武谷は九州の出身と書いた。福岡県大牟田市で生まれたことは事実だが、武谷の両親は現在の山口県光市の出身である。

latexのトラブル

2012-03-08 10:18:04 | デジタル・インターネット

昨日、数学・物理通信の2巻1号の編集を始めたのはいいが、latexでトラブッテしまった。私も含めて3人の投稿があり、それを最新号に取り入れることまではできたのだが、チラッと見るとどうも字がゴチックになっている。これはイカンと思って普通の字体に戻そうとして、optionのフォントのところをいじったのがよくなかった。

日本語のところがなんだかわからない記号に変換されてしまった。これは表示だけの問題であるから元へ戻す方法があるにちがいないのだが、すぐにはわからない。19時もすぎていることだし、子どもに緊急の助けを要請するメールを出して昨日は帰った。

さて、子どもからいいアドバイスが得られるかどうか。急に聞かれても返答がなかなか難しいかもしれない。ということで今朝は早くから眼が覚めてしまった。それに失敗の復旧が簡単にできるという夢まで見た。ともかく朝早く起きたので、新聞を早くに読んでしまって、いつもより早く仕事場に来れたが、さて懸案のトラブルは簡単に解決するかというとそう簡単だとは思えない。

それにしてもこういうトラブルが起こるとは想像だにしていなかったので、心が重い。


e-tax

2012-03-07 12:01:08 | 社会・経済

ここ数年e-taxを使って所得税の還付の申請をしている。ところが昨日パスワードを5回間違って入力したので、ICのパスワードにロックがかかってしまった。あわてて、16時過ぎに市役所に出かけてパスワードの変更をしてもらった。

というか、パスワードを忘れてしまったのだから、始末が悪い。それであわてていろいろ試した結果としてロックがかかってしまったというわけである。

還付金が年々少なくなっており、この還付金の額からも、税負担が年々大きくなっていることが実感できる。とはいっても年数百万の所得しかないので、税金の重さといってもしれたことである。勤めをしていた頃には学会にもいくつか入っていたが、いまでは物理学会だけにしている。

定年退職後に学会を退会する人も少なくない。それくらい年金の収入が現役のときと比べて少なくなるということである。だから学会雑誌をとっていたのをやめたりもする。そうしないと生活ができないという具合なのである。

定年後の年金以外の収入のあてはあまりない。数年前に古典力学の本の翻訳を私も含めて3人でしたが、上巻の印税を数年前にもらったが、それにしても多額ということはなく、下巻は上巻の発行からも数年遅れたために売れ行きがよくないのか、印税を支払ってくれるという話はまったくない。

出版社も生活があるのだから、なかなか印税を支払うということにはなかなかならないのだろう。いわば、働いたが、それに対する報酬というか賃金がまったく支払われない場合に相当するかもしれない。

もっとも、どれくらいこれらの書籍によって、出版社が収入を得ているのかわからないので、約束不履行だということもできない。そんなものである。

書籍の出版によって十分の収入を得ている訳ではないという例を聞いて知っているが、作家としての「本の出版では生活ができないが、講演の依頼等で生活が維持されている」とかなり名の知れた作家から直接に妻が聞いたという。そういうものであろうか。

その作家は映画化された小説の原作者であって、結構名前の知られた方であるが、それでも本の印税では生活ができないものらしい。この方の講演を私も一度聞いたことがある。


私のフランス語修業15

2012-03-06 13:03:52 | 外国語

午前中に用があって、久しぶりに銀行に行って待っていたら、BGMで知っている歌が流れた。精確にいうと歌の文句はないがメロディだけが流れた。

それが「アヴィニオンの橋の上で」で覚えている歌詞は

Sur pont d'avignon l'on y danse, l'on y danse シュルポン ダヴィニオン ロンニ ダンス ロンニ ダンス

Sur pont d'avignon l'on y danse, l'on y danse シュルポン ダヴィニオン ロンニ ダンス ロンニ ダンス

Sur pont d'avignon l'on y danse,  toute en rond シュルポン ダヴィニオン ロンニ ダンス トュタ アン ロン

であった。

もっといろいろな歌詞が入っているのだが、私はもう覚えていない。

お坊さんがこのようにするとか兵隊さんがこのようにする (les soldats font comme ca) とかあるのだが、もう覚えていない。

昔、フランスへ留学したいと思ってフランス語を数年学んでいたことがある。そのころにいくつかのシャンソンを覚えたのだが、時間が経つうちに記憶の細胞が壊れてしまって残っていない。

かなり長いことRomanceという歌を覚えており、誰か知り合い方の結婚式で歌ったりしたことがあるが、それも今では曖昧になっており、覚えているがどうかもはっきりしない。

E大学で同僚だったWさんによれば、それはジュリエット・グレコの持ち歌の一つだとかで、「きちんと覚えておいたら、何かの役に立つよ」と言われたが、そのころは覚えていたが、今でも再現できるかどうか。

Ces mots charg'ee de romance, comme un matin qui sourit

C'est un amour qui commence dans le primtemps de Paris

Paris, qui n'est a personne, Je te le donne si tu veux

C'est un cadeu pour toi---------------????????

-------------------------------------------------------------------------------

(3.9 付記: 3月7日のテレビのフランス語講座を見ていて、上のParisをPariと綴っていたことに気がついたので、訂正した。英語ではParisと書いて、語尾のsまで発音するが、フランス語でも日本語でも最後のsは発音しない )

どうも怪しげな記憶では再現はとても難しい。これはNHKのテレビのフランス語講座で丸山圭三郎先生が担当だったときのシャンソンだから、これを覚えている方はおられてもかなりのお年であろう。

義父が昔の学生の頃に流行ったシャンソンのLPを買ってきて、聞いていたことがあり、そのシャンソン、「パリの屋根の下」だったかを歌えるようにというので、その文句を日本語のカタカナで書いてあげたことがあった。

その日本語のフリ仮名を使ってシャンソンを歌っているとは聞かなかったから、聞くだけだったのであろう。

でも若い画学生であった頃に流行ったシャンソンの懐かしんでそのLPを聞いていた義父はなかなかの洒落者であった。


同じ療法

2012-03-05 13:05:16 | 健康・病気

昨日新聞を見ていたら、花粉症の症状が厳しい今の季節にスギ花粉の飛ばない九州のある島に行くという花粉症の(ある種の)療法が書かれていた。もっともこの島には宿泊施設が十分になく、モニターの20数人を選んでそのツアーが企画されたという。本当は80人くらいの応募があったそうだが。

これは旧聞になるが、1925年の5月に物理学者のハイゼンベルクは20歳をちょっとすぎた頃だったが、ひどい枯れ草熱(hay fever)に罹り、草花のない北海の島ヘルゴラントに療養に出かけた。そしてそこで量子力学の端緒となる有名な論文を書いた。

その量子力学の論文云々は前にもこのブログで書いたことがあるから、今日はこのことはこれくらいにするが、枯れ草熱を治すというか、やり過ごすために草花のないヘルゴラント島に出かけたというのは昨日の新聞に出ていた花粉症の療法と同じである。

枯れ草熱とは日本の現代風にいうと花粉症だと訳されたりもするが、アレルギー性の病気であるらしい。アメリカに8年くらい滞在していたことのある、E大学での元同僚Sさんの話では5月頃に不快な40度近い熱が出るのだそうである。その季節をすぎると治るのだが、その季節は大変らしい。これはそころに咲く草花に対するアレルギー性の疾患である。

私もご他聞にもれず花粉症で現在苦しんでいるが、その元同僚も大学の入学試験のころに眼が赤くはれ、鼻も赤く顔全体が腫れぼったい感じを今ごろの季節にはされていた。そして、「枯れ草熱」の説明を私ははじめて彼から聞いて、ようやく花粉症とも日本では訳されている枯れ草熱の正体を知ったのであった。

人によって花粉症の症状は違うのかもしれないが、花粉症では鼻水がのべつまくなく垂れて困るが、幸いなことに熱は出ない。そこが枯れ草熱と日本の花粉症の違いであろうか。しかし、このどちらもアレルギー性の疾患であることはまちがいがない。

ハイゼンベルク夫人が夫の死後書いた本「ハイゼンベルクの追憶」(みすず書房)ではハイゼンベルクがアレルギー性の疾患に苦しんでいたことが書かれている。


人生は退屈か1

2012-03-03 11:58:50 | 日記・エッセイ・コラム

「人生は退屈か」と聞かれたら、退屈だという人は少ないに違いない。しかし、歳を取ってくると健康上の理由もあって意欲が減ってくるのはしかたがない。そして人は最後には昏睡状態に陥って亡くなるのが常である。

私の父なども最後に昏睡状態に陥ってなくなったが、それでも比較的最後まで意識がしっかりしていたと思う。亡くなる直前にも血圧が下がって、心配した看護師さんが病室にやって来たら、自分はほとんど意識がなくなっているのに「そこにいるのは誰か」と尋ねた。

そのときは妻と私がもう最後らしいというので病室につめていたが、いつ亡くなるかは予測がつかないので、私は起きて父を見守り、妻には一眠りするようにいって、私は父の様子を見守っていた。そして私の目の前で息をひきとった。

私の母と妻の母の死に目には両方とも会えなかったが、妻の父と私の父の死に目には立ち会うことができて幸せだった。妻の父と私の父との息を引き取る前には奇しくも私と妻が病室に居合わせた。

人間は自分の死ぬときを自分で選ぶことはできない。これは病気で死ぬときの話であって、自殺とかは別である。

ともかく、「人生は退屈か」という設問であったが、私自身は退屈と感じたことはいままでのところない。もっともいろいろな意欲が序々に落ちて行くということは私もそのうちに経験することであろう。

だが、いまのところまだ体もそこそこであって、意欲は衰えてはいない。幸いなことに。だから、このブログも書き続けられている。


水沢の一夜

2012-03-02 12:59:59 | 芸能ネタ

昨日、県民文化会館(ひめぎんホール)で前進座の公演があった。その中の一つの演目が「水沢の一夜」であった。

幕末の蘭学者で医師の高野長英が獄に入っていたが、火事に乗じて放免されたときに数日中にまた獄にはもどらず、逃亡生活を続けるが、母親の美也に一目会いたくて出身地の水沢を訪れるという筋の新劇である。

鶴見俊輔さんの『高野長英』によれば、母親の美也は当時水沢には住んでおらず、母親の弟の住んでいた前沢に住んでいたというから、水沢を長英が訪れたというのはこの演劇の台本を書いた脚本家のフィクションであろう。

それに長英には息子はいたが、娘がいたようには思えないので、さらにフィクションが重なっているように思える。しかし、長英役の主演の嵐芳三郎さんがおわり頃に語る台詞に「宇和島藩にはシーボルト先生の相弟子の敬作がいる」と語るときには、なんだか伊予の人に誇らしげに語りかけるような感じだった。

そのときの気持ちを本人に聞く機会があるわけではないので本当のところはわからないが、多分主演の芳三郎さんはこの台詞を語るときには、多分に愛媛の公演では観衆に親しく語るという感じを強くもっていたことだろう。

愛媛県では昔の卯之町、今の行政区分では西予市の出身の方とかその近くの宇和島の出身の方とか、はたまた愛媛県人は二宮敬作のことを知らない方はおられないだろう。

昔、司馬遼太郎の「花神」というNHKの大河ドラマがあったが、このドラマではシーボルトの娘のイネを育てたのはこの敬作であったと思う。そして、その当時宇和島藩に召抱えられていた、村田蔵六(大村益次郎)の恋人役で、浅丘ルリ子さんがイネを演じていたと思う。また村田を演じたのは現在、前進座の会長である、中村梅之助であった。

鶴見さんの高野長英の評伝を読む機会をこの公演のお陰で持てた。こういう機会がないと私などは高野長英の伝記など読み機会がなかったろう。


脱稿かと思ったが

2012-03-01 11:54:09 | 数学

「四元数の発見2」は完成とすでに何日も前に思っていたし、そのつもりであったが、朝方の夢うつつに図のcaptionを少し書き換えた方がいいと思いついた。うむ、なかなか終わりにならない。

図のcaptionに3次元空間での点の座標を書き入れた方がよいと思いついた。それに図の三角形が直角三角形であることを明確にするcaptionに書きかえるとか、角が直角であるところにはその記号を図に付け加えた方がいいと思った。

こういうことはもちろん意識して考えている訳ではないが、ふと思いつくのである。もちろん、その前に何回ともなく自分の書いたエッセイを読み返している。そしてもう自分ではどこも改良点がないと思い出してからのことだから、不思議な気がする。

自分の頭が勝手に働いているわけである。そのことを私自身はどうすることもできない。そしてそれは意識的な努力ではないから、別に自分でつらいということはない。

さて、午後には原稿の修正をしようか。