物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

初歩からの経済数学

2013-08-13 18:19:04 | 数学

『初歩からの経済数学』(日本評論社)という書があるのを初めて知った。

この本の著者、三土修平さんはいまはわからないが、愛媛大学の法文学部教授であるとこの書にある。私も学部は違うが、同じ大学に勤めていたから、何かの機会に三土さんの名前は聞いたことがあったが、このような数学の達者な方とはついぞ知らなかった。

この書は評判のいい書だとのことである。私は第II部 「線形代数編」の部分だけは斜め読みしてみたが、章名はそれぞれ難しいそうだが、斜め読みして見た限りでは中身は読みやすそうである。

そして、なかなかこなれた書き方であり、著者の数学の素養が並大抵ではないことがわかる。

この書は、数学者が書いた数学書を十分に読みこなす力のある著者の好著であることは間違いがない。これは経済学の方だけではなく、数学科の学生を除く、理系の学生が読まれても十分に役立つと感じた。

またコメントの部分が興味深く書かれている。ここにこの書の特徴の一つが現れている。


せっけん交代

2013-08-13 18:00:06 | 日記・エッセイ・コラム

数年前に自民党から民主党への政権交代があった直後のことである。

松前町の中川原の町内会のお祭りで恒例の劇があったが、そのときのテーマが「せっけん交代」であった。

これは固形の石鹸から液体のせっけんに大きく代っているという話であり、これは当時のはやり言葉となった政権交代をもじったパロディであった。

そのときはそんなものかなとあまり実感がわかなかったのだが、最近になって妻がいうには小さなスーパーには固形の石鹸が売っていないという。

もちろん、お中元やお歳暮用の贈答としての固形の石鹸とかは売られているだろうし、なくなったわけではない。だが、小さなスーパーでは液体のボディシャンプーとかはおいてあるが、固形の石鹸は売っていないというのはさすがに時代が変わっているとひしひしと感じる。

ということでわが家もとうとうボディシャンプーに移行することとなった。わが家は数年の遅れである。

最近携帯をなくした、妻はスマートフォンになったが、私などは携帯もスマホももってもいないし、使えない。それくらいの時代遅れである。


伏見、赤井著『直交関数系』のアクセス

2013-08-12 21:01:23 | 数学

伏見、赤井著『直交関数系』(共立出版)が最近再版されたせいか、私のブログ「伏見、赤井著『直交関数系』」のアクセス数が今週は15となっている。

これはアクセス数が少ないという見方もあるだろうが、数学の書についてのブログであり、それもあまりやさしい数学書でない。

実際にこの書を買った人が読んでいる割合は1/3くらいかとは思うが、それでもなかなか、この書に関心をもって下さる方は多くはなかろう。

そういう判断をすると、この15というアクセスはなかなか捨てたものではない。これはある意味では日本人の知的好奇心の程度が高いということを示している。

もともと、伏見康治先生の『数理のつみ草』(みすず書房)に出ていたエッセイに母関数の威力のことが書かれていたのが、「直交関数系」に関心をもったきっかけである。

それで、私の『物理数学散歩』(国土社)の母関数というエッセイの話の導入部として、伏見康治先生のエッセイを使わせていただいた。


ドイツざっくばらん

2013-08-12 20:29:55 | 本と雑誌

小塩節先生の「ドイツざっくばらん」(NHK出版)という本を読んだ。

これは以前にフンボルト財団が元のフンボルト奨学生に贈ってくれた書ではないかと思う。多分自分でこの書を買ったりはしないと思う。

それはともかく結構おもしろかった。自分がドジを踏んだ時に日本語風だと「俺はばかだな」とか「私バカよね」とか独り言でいうかもしれないが、"du, Idiot"とかなんとかいうという。

ようするに自分の中での2人称での対話が行われるという。どうも、"du, Idiot"はここで勝手に作った文であるから小塩先生が書いてはいなかったと思うが、発想法が異なっているという指摘はおもしろかった。

他にもおもしろかったが、メモをとっていないので、またつぎの機会に書くことにしよう。

もともとテレビのドイツ語講座のテキストに書かれていた文章を集成してできた本であるが、これは小塩先生がケルンの日本文化会館の館長として、1986年から1988年まで勤められた。


仕事場の掃除

2013-08-11 18:01:10 | 日記・エッセイ・コラム

お昼過ぎから仕事場にやって来て、掃除機をかけた。

長男夫婦が今夕1ヶ月ぶりに帰郷するので掃除をしたのである。彼はアトピー体質で、ほこりが体によくない。

それで毎回彼らが帰ってくる前には大掃除である。玄関のドアを少し開けておくと風が通ってなかなか気持ちがよい。

でも作業をすると汗だくである。朝はこのところ1時間ほど笹竹の除去で庭に出ているし、大忙しである。親というものはそれだからと言って不満に思ったりするわけではない。むしろ子どもたちが快適に過ごせればいいと思っている。

これはどこの親御さんもそうだろう。私たちだけがそうだというつもりはまったくない。親子というものは利害をはなれたものである。 


酷暑

2013-08-10 12:27:22 | 日記・エッセイ・コラム

酷暑である。

梅雨明けが早かっただけ、東北地方や北海道を除いて、酷暑である。梅雨に入ったのも5月27日と早かったが、明けるのも7月5日と早かった。

その分いつもなら、梅雨空の雲にさえぎられている太陽が例年よりも早くから地上を照らしている。そこら辺が7月20日前後に明ける例年とは違っている。

酷暑は一つには一日の最高気温が35度を越えるということもあるが、もう一つは最低温度が25度よりも高いということがある。昼間の暑さはしかたがないが、この夜になっても最低気温が25度を切らないというのが暑さを耐えがたくしている。

いまではエアコンがあるので、夜の安眠を妨害するものは少なくなったが、それでも四六時中エアコンの風にあたるのは体によくない。それで朝方は外気を入れてなんとかやり過ごそうとしているのだが、最低気温が26度、27度ともなるとこれは快適にはもう感じない。

もちろん、湿度が低ければそれでもしのげるのであろうが、日本の夏は湿度が高い。

ドイツ語にschw"ulという語があり、これが「蒸し暑い」という意味である。ところがこれとよく似た語にschwulという語があり、こちらは「男性がホモ」という意味だという。発音がよく似ているので私などは同じ語だと思っていたが、いま辞書を引いてみると、発音と綴りが微妙に違っている。

もっともこれを少しドイツ語のできる人でも日本人は同じ発音の語と思うのではないだろうか。少なくとも私は同じ語だと思っていた。ヨーロッパの夏は酷暑でも一般に湿度が低いから、日本のようには暑さを感じない。もちろん喉はとても乾く。


ポマト

2013-08-09 16:20:05 | 科学・技術

ブログのタネにということで妻がポマトのことを教えてくれた。

地下茎にはジャガイモが、地上に生えた茎からはトマトがとれるという。だからポマトである。名前は前にも聞いたことがあり、初耳ではもちろんない。

そういうものがあると妻の友人が妻に教えてくれたという。残念ながら実際にこのポマトからとったポテトとトマトを食べたことはまだない。もちろん知らずにすでに食べているという可能性もないわけではないが。

妻はこれは遺伝子組み換えでつくったのではないかというが、たぶんそうではなかろう。交配によってつくったのではないかと思うが、確かではない。

そういえば、先日やはり新聞に遺伝子組み換えで害虫に20年くらいやられないという触れ込みだった遺伝子組み換え農作物が2,3年で害虫にやられるようになったものがあると出ていた。

これは何を意味するのか。よく考えてみたい。


笹竹の除去3

2013-08-09 11:02:07 | 日記・エッセイ・コラム

笹竹の除去は1週間以上になるだろうか。毎朝1時間程度の作業は続いている。

なかなか除去できないのだが、それでもすこしづつ成果は出ている。だが、まだたくさん塀の側にある笹竹の除去にはいたっていない。

一番角のところの除去はようやく今日終わったが、明日から笹竹の本拠地への挑戦になる。

朝の8時過ぎくらいまでの約1時間を笹竹の除去に使っているが、体調がすごくよい。もっとも体調がいいのはこの笹の除去をやっているせいかどうかはわからない。たまたま体調のよいときに作業をやっているだけかもしれない。


Francais par la joie

2013-08-08 12:54:41 | 外国語

昨日、Francais sans larme(涙なしのフランス語)というのに触れたから、今日はFrancais par la joie(楽しいフランス語)について述べよう。

これは1970年代はじめころのNHKテレビのフランス語講座であった。いつもこのブログで言及する丸山圭三郎先生が講師であった(注)。

ミステリじみたドラマにしたがった放送であり、いつかこれはFrancais par la joieではなく、Francais par la horreur(恐怖のフランス語)だねという冗談が先生から出たのを覚えている。

二コラ・バタイユさんがゲストの一人であった。彼はドラマのシナリオと演出を手掛けていたのではないかと思う。話の筋はまったく覚えていない。

そのころにどういう言葉を覚えたのかも全く覚えていないから、なにを見ていたのであろう。

ともかく舞台の場所はブルターニュのどこかの城の中で叔父の死後に甥や姪が呼ばれていたという筋だったような気がする。しかし、結局は叔父は亡くなっていないという結末であった(ように思う)。

ブルターニュはフランスでは文化的にも特異な位置を占めていて、言語的にもブルターニュ語が残っていたりする。民族的にもケルト系の人種のようである。

雨が多く、英国にも近いということから伝説も英国と同じような伝説が残っていたりするらしい。

最近のフランス語の放送ではリンゴ酒シードルとかクレープとかで有名である。リンゴの木が多くてそのリンゴからつくられるシードルとかカルバドスとかをブルターニュへ行って飲んでみたい。

カルバドスは蒸留酒であるから、アルコール度がきついそうだから、私はシードルで我慢をしようか。

リンゴ酒Apfelweinといえば、フランクフルトの市街地の中心のマイン河をはさんで南側の対岸には美術館や博物館がたくさんあるが、そこを東に少し歩くとアプフェルワインを飲ませることで有名に地域がある。

私はフランクフルトの隣町のマインツに1976年4月から1977年3月まで一家で住んでいたが、そのことを知らなかった。

やはり帰国してから見たテレビのドイツ語講座の放送で知ったので、1997年だったかに2週間ほどドイツ各地を巡ったときに、日本へ帰る最後の日にこの地区のレストランを訪れて、アプフェルワインを飲んだ。

何杯か飲んだが、やはり私の好きなモーゼルワインとは比べることはできない。

(注) ちなみに私はラジオの方で丸山先生のフランス語講座の放送を聞いたが、そのうちに先生がテレビの方に出演されるようになったと思う。たくさんのフランス語の先生からテレビやラジオで学んだことになるが、林田僚右先生とか覚えている先生の名はあまり多くはない。


Francais sans larme

2013-08-07 16:07:38 | 外国語

Francais sans larme(涙なしのフランス語)というフランス語の入門書があった。

その書を読んだこととか購入したことはないのだが、それくらい涙なしにはフランス語は学べないということだったのだろう。

しかし、フランス語はどちらかというと英語に親しんだ人には入口は学びやすい言語である。だが、学習が進んでいくとちょっと難つかしいところがある。

それは動詞の変化である。動詞が直説法には現在、未来、半過去、複合過去、大過去、単純過去、全過去があり、条件法にも現在、過去があり、接続法にも現在、半過去、過去、大過去がある。

長年フランスの初級を学んでいても単純過去はあまりお目にかからなくて、物語とか小説でしかお目にかからないので、よくわからない。また、条件法現在と未来とが動詞の変化でよく似ているので紛らわしい。

それらが大変ではあるが、語順としては直接および間接人称代名詞が動詞の前に来るのと形容詞は原則として名詞の後ろに来るのが英語と違っているくらいである。あまり難しいことはない。

ドイツ語では定動詞(主語にしたがって変化する動詞)の位置が平叙文では文の2番目の位置に来るとか副文では定動詞が文の最後に来るとか現在完了や助動詞構文で動詞の第二成分が文章の終わりにおかれて枠構造をつくるというような面倒さがある。

こういう面倒さがフランス語にはない。

フライブルクのゲーテ・インスティチュートでドイツ語の講習を受けていたころ、友人のエジプト人の化学者が理解していなかったのはドイツ語のこういうところであった。

コースが進んでいった終りの方になってもこれらの動詞の語順を理解していなかったので、1,2度は先生も注意をしたが、ついには先生からも見放されたような気がした。

それに彼は英語は上手に話したから、あまりドイツ語を話せなくても痛痒は感じなかったであろう。

同様なことは途中から入って来た、ハンガリー人の若い学生にも見られた。話すことは何でも言うことができるように思えたが、やはりときどき先生に直された。だが、彼にはどこがどういけないのかわかってはいなかったろう。

ドイツ人にとってはドイツ語は空気みたいなものだから、ドイツ語の配語法の独特さにはあまり気がつかない。それで日本人はとくにそのことを気を付けて学ばねばならない。私はそう考えている。


幻の書

2013-08-07 13:32:32 | インポート

『微積分教育の新しい方向』(東数協ゼミナール1)(1988.8刊行)という幻の書を最近手に入れた。

これは近数協の古本市場で格安で手に入れたものである。私にとってはまことに幻の書であった。

これは一言でいえば、いかに量の理論の観点にもとづいて「微積分を教えるか」ということに焦点を当てた、宮本敏雄さんの『数学教室』連載の記事をまとめたものである。

矢野 寛(ゆたか)先生の『中学・高校における水道方式』(愛数協ブックレット)にたびたびその内容の一部が引用されていたが、私には幻の書であった。

これに明治大学名誉教授の銀林浩さんが解説をつけておられる。銀林さんは手放しで礼賛一方ではなく、その宮本さんの考えられたことの発展を考えておられる。

そして現に彼は『量の世界』(むぎ書房)という書を出されてもいる。今回まだ宮本先生の内容にはまだ立ち入っていないが、解説のところを読みつつある。

そのある個所で以下のように書いてある。

内包量を生み出す割り算の延長線上に微分を、そして外延量を生み出す掛け算の一般化として積分を位置づけようという遠山啓の根本理念は、すでに小学校算数の検定教科書『みんなの算数』編集当時1959年にできていた。しかし、理念だけでは『絵に描いた餅」同然であって、教育上の実効は期待できない。どうしてもカリキュラムと具体的教授プランが確立されなければならないのである。『量の問題とその発展』(森毅:引用者追加)にしても『微積分教育の新しい方向』(宮本敏雄:引用者追加)にしても同じことがいえるだろう。わが『量の世界』(銀林浩:引用者追加)だって同罪であって、理念のリファインに留まっているとしかいえない。(引用終り)

実際にその具体的第一歩は自由の森学園の増島高敬氏によって乗り出されたとその後に書かれている。

しかし、高校の教育課程ではそれでいいだろうが、高校だけではなく、大学の基礎教育の観点から見た、微積分学の具体的内容という点ではまたもう一つ問題があるのではないかと思われる。

高校から大学基礎数学へと移行していくときにそのテキストとカリキュラムをどうするのかという問題が残っている。

『微積分教育の新しい方向』にしても優れた著作ではあるが、それでもそれは高校レベルに重点があり、大学の基礎数学レベルまで含めた『微積分教育の新しい方向』ではない。そこに問題が残っている。

その後、高校での具体的な授業の実践は増島高敬さんが報告をブックレットにされていることを知った。


ある若者の十回忌

2013-08-06 12:06:23 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、帰宅したときに郵便受けを覗いたら、一枚のはがきが来ていた。

ちらっと見たところ友人の数学者のNさんからきた暑中見舞いかと思ったが、妻に読んでもらったら、私たちが属している、ある団体のブロック長をされていた、若者が亡くなって十回忌が8月4日だったという。

そのお母さんからのはがきであった。つい先日のことのように思うが、そんなに年数が経ったとは思わなかった。

その若者は学部は違うが、私の大学の後輩になる方で、もし生きておられれば、ノンフィクションライターとして活躍をされていたかもしれない。

惜しい人を亡くしたと今でも思っている。1周忌の前だったか5月の休みだったかに私たち夫婦でお墓参りに行ったことがあるが、そのときにそのお母さんとはもちろんご一緒したのだが、たまたま若い女性が彼の1周忌の機会だったとかいうことで、お墓参りに来られていた。

どういう方だったか詳しいことは何も聞かなかったが、何らかのお知り合いであったらしい。

人柄が穏やかでやさしい彼のことだから、昔の恋人であったのかもしれないが、そういう詮索をするのはいまさら野暮であろう。

ちょうど桜が散るころであったと思うので、1周忌には数か月早かったとは思うのだが、記憶がもうはっきりしない。

こうやって、人の生活は続いていく。はがきをくださった、このおかあさんにも私たちにも、みなの人にひとしく。


双子素数の謎

2013-08-05 13:42:29 | 数学

「連続する奇数の積に1を加えると4の倍数である」ということをある中学校の数学の授業で取り上げられたと数学教育協議会の会報で読んだ。

それに触発されてその命題の証明を与える、エッセイを書いた。まだ完成はしていないが、およそ書き上がっている。それを昨週の土曜の夜遅くに加筆訂正を赤のボールペンで入れた。

今日、新聞を見たら、「双子素数の謎が解けるかもしれない」という記事が載っていた。こういう話題は本来私の関心は引かないのだが、上に述べた問題を解いた(もちろん練習問題として)後だったので、ちょっと関心をもった。

双子素数とは「3と5」「5と7」「11と13」のような偶数を1個はさんで隣り合う素数のペアだという。「こういう素数は無限に存在する」というのが「双子素数予想」だという。

数が大きくなるにつれて素数の間隔は一般に大きくなる。だが、ときどき素数の間隔2の素数(双子素数)があり、それは無限にあるというというのが予想である。

双子素数は「連続する奇数」とちょっとよく似ているが、もちろん連続する奇数の組の方が多い。いま上に3つの双子素数を挙げたが、この間に「7と9」とか「9と11」のような連続する奇数があるが、9はもちろん素数ではない。

ちなみに新聞に出ている、双子素数の例は上の3つを除くと「17と19」「29と31」「41と43」「59と61」「9767と9769」「9857と9859」「9929と9931」である。

素数の間隔が7000万未満の素数ペア(これはもちろん双子素数ではない)は無限に存在するということをアメリカの数学者がこの5月に見つけた。

その論文がきっかけとなって素数の間隔が5000未満の素数のペアは無限にあるという発見が7月に出たという。その素数の間隔がちょうど2になるような素数のペアが無限にあることを証明できれば、「双子素数の予想」が解けることになる。

最後の解を与えるのは誰だろうか。


超対称性粒子はある?

2013-08-05 12:25:12 | 物理学

8月1日の朝日新聞に超対称性粒子があるかに素粒子学会の関心が移っているとの報道があった。

これは昨年のヒッグス粒子の発見から1年を経ったので、7月末にヨーロッパで物理学会があったという。

まだヒッグス粒子の詳細な性質がわかっているわけではないので、その性質を精査することと次の目標は超対称性粒子の存在に関心が移ってきたということらしい。

その記事の下に南部陽一郎さんが大阪大学で講演をして、個人的見解として「超対称性粒子はないと思う」と述べたと書かれていた。

南部さんは大阪大学の特別栄誉教授をされているので、毎年大阪大学に研究に来られるらしい。この碩学の予言があたるのかそれとも人間が考えた可能性の一つである、超対称性粒子が自然界で実現しているのか。ハラハラする時代ではある。

超対称性粒子については実験的にはなかなか困難な局面に来ているようであり、実験的な検証もなかなか難しそうである。おそらくは私の生きているうちには答えは出て来ないだろう。


笹竹の除去3日目

2013-08-03 14:36:05 | 日記・エッセイ・コラム

先日来、朝早い時間に庭に出て、笹竹を掘り返して除去している。

1日目はとても疲れてこれではどうしようもないなと思ったが、それでもあまり一日を頑張らないことにして今日で3日目である。

どうせそのうちに飽きてしまうだろうと妻は考えている節があるが、なかなか少しぐらいのことでは私はあきらめない。ただ、笹竹の除去は毎日ほんの少ししか進まない。

出入りの庭師さんに頼むことも考えられるが、財政的に窮屈な私の家ではそんなことはできない。

それに第一、笹竹を除去するなどという、おもしろい作業を他人にしてもらってお金を払うなどということはいまの私には考えられない。

ということで今日が3日目であった。昨日から木の切り株を椅子代わりにして移植ごてで土を掘り返して笹竹の地下茎をとっていく。

結構はまりそうな作業である。そしてその掘り起こした地下茎を剪定ばさみで小さく切ってポリバケツに入れる。そのバケツがいっぱいになればその日の作業を終えることにしている。

大分作業に慣れてきたが、やはり椅子代わりの木の切り株に腰を下ろしての作業なので、立ち上がったときにはすぐには腰が曲がっている。

私の父が生前には庭の草取りが原因だか腰が曲がってしまったが、やはり草取りは体にはよくなかろう。

私の実家は I 市だが、屋敷内はいまでは車の駐車場としてかなりのスペースが使われているので、その部分はアスファルト舗装がされており、草取りも昔ほどではなくなったが、それでも松山の私の自宅の猫の額ほどの庭と比べるとかなり広いので、兄嫁さんは草取りに苦労していることだろう。