物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Klasur

2013-08-02 11:07:55 | 外国語

1976年のことだからもう40年近く前のことである。

ドイツのマインツ大学の物理学科の研究室にいたとき、午前中だったが部屋の扉がノックされて学生が入ってきた。数学公式集はないかという。そこには数学公式集がなかったので、なぜ公式集がいるのと聞いてみたら、sinだったかcosだったかの微分公式が知りたいという。

多分こうだったよと教えたのだが、もちろん微分した結果を積分をしてもとの関数にもどることをその場で確かめた。

それで、なぜそんな公式が必要なのと尋ねたと思う。そうするとKlasurのためだという。Klasurという言葉を知らなかったので、即座にはわからなかったが、2,3のやり取りの後、試験のためであることがわかった。

こういういきさつで、Klasurという語を初めて覚えた。ラジオとかテレビで初級のドイツ語講座を30年以上聞いているが、Klasurという語はその後にも一度しかお目にかかったことがない。

私の覚えているのは

Der Student ist vor dem (正しくはder) Klasur am Fleissigsten. (その学生は筆記試験の前が一番勤勉です)

という例文であった。ところがいま辞書を引いてみるとdie Klasurとあり、これだとvor der Klasurでないとおかしい。

ということは私の記憶がいつのまにかvor der Klasurからvor dem Klasur といつのまにか勝手に変えてしまったらしい。

ドイツ語のクラスの講師Rさんによれば、試験をするのに部屋を閉め切って学生を部屋から出さないようにして試験をしたことに由来するらしい。だからこの語はラテン語起源である。

普通のドイツ語でいうならば、schriftliche Pr"ufung(筆記試験)とでもいうのだろう。これはもちろんmundliche Pr"ufung(口頭試問)に対するものである。

なんで、こんな昔のことを思い出したのか。

それは妻から昨夜の夕食の時にあなたの本はしかたがないから、しばらくそのまま置いておくが、30年以上たまっている、NHKのラジオやテレビのテキストはいまのうちに始末をしたいと言われたからである。

いつだったかもこのブログで自分が死んだ後の私の買い求めた書籍の処分についてどうしたものかと書いたが、それ以前の大問題があった。

なんとかこの大きな蓄積を生かす方法がないかと思うが、普通の図書館は大学の図書館も市や県の図書館も書庫は手狭であり、どうやって本の処分をするのかが大問題らしい。

国会図書館に問い合わせてもあそこは日本で発行された書籍や雑誌の類もすべてもっているだろう。さてどうしたものか。いいアディアはないものかと思案中である。


笹竹と闘う

2013-08-01 12:51:04 | 日記・エッセイ・コラム

私たちが家をもつようになったとき、猫の額ほどだが、自宅に庭をもつことができた。

その庭に笹を植えたらどうかと勧めてくれたのは妻の叔母であった。そしてある方のお宅から笹をすこし頂いて庭に植えていたが、笹は竹の一種なので地下茎でだんだん繁殖していく。

それで、それがあまりひどく庭に繁茂しないようにと妻ががんばって適当に刈り込んでいたが、その努力ももう限界でお手上げだと言い出した。

家を新築した当時はともかく、最近は私は庭木に水をやることも妻にまかせきりであったが、先週来の妻の体の不調で庭木に水をやることをここ数日引き受けている。

ところが妻に「笹が繁殖してもう私の手には負えない」と宣言された。それで、しかたがないから、毎日か2日に1回か笹をすこしづつ除去することにした。

ところが私はひざが悪く一度しゃがみこんでしまうとなかなか立ち上がることも困難である。

それでもしかたがないから、今朝からすこしづつ笹の除去をすることにした。物置からスコップや鍬をもちだして、笹を掘ったが、今日掘り起こすことができたのはほんの数本であった。

これから1か月か2か月の間、笹竹との闘いが続く。


コントラバスのカルテット

2013-08-01 12:31:37 | 音楽

昨晩、市民コンサートでコントラバスの四重奏(Beato Bass Quartet)を聞いた。

もちろん、その中ではソロもあり、デュオもあり、かつまたトリオ演奏まであった。コントラバスは大きな楽器であり、大の大人がよいしょと持ち上げて運ぶ必要がある。

コンサートの中でも演奏者から説明があったが、普通のオーケストラ等のコンサートでは控え目に低音で演奏するパートを引き受けている。そして、今回のようなコントラバスだけのカルテット演奏はとても珍しいのだという話である。

そういうコンサートの構成の提案をどなたがされたのかはわからないが、なかなかのアイディアであった。カルテットでの演奏ということになると4人のうちの1人または2人がメロディを演奏して、他の人がベース部分の低音部を演奏するということに基本的にはなるのであろう。

だが、面白い試みで楽しんだ。前半部は普通の音楽であったが、後半部は少し普通の音楽というよりは実験的な試みが行われた演奏だった。

だが、コントラバスの好きだった作曲家のコントラバスのための曲の演奏もあり、結構楽しめるものであった。

もっとも私のように音楽を解しないものが何を言っても専門家とかペダンティストから見れば、的外れもいいところであろう。


塩パンを食べる

2013-08-01 12:02:54 | 日記・エッセイ・コラム

先日、松前町に塩パンをつくっているお店があると書いた。

だが、その塩パンを食べることはなかったが、ようやく昨日その塩パンを食べることができた。

それほど塩味がきつくなくて、程よい味であった。妻がいくつか買ってきたうちの2個を食べたのだが、あっという間にぱくぱくと食べてしまった。

夕食前の6時ごろである。もっと食べたいという気持ちも起こらなかったから、食べ味のいいとてもいいパンである。その直後に市民コンサートを聞きに二人で出かけた。