徳島科学史研究会で感じたことの続きを述べよう。
西條敏美先生の「医師・三宅速のアインシュタインからの墓碑銘の真相」という講演である。講演の内容はおもしろいものであるが、それは三宅速の墓碑銘にアインシュタインの直筆の追悼文ができた経緯である。
実はアインシュタインは署名以外はタイプ打ちされた文書を墓碑銘として送って来たが、それを速氏の長男が私文書である、アインシュタインの直筆の手紙にあった筆記体の字で全部置き換えるように専門家に頼んで、現在は墓碑銘にはアインシュタイン直筆の筆記体の文書が墓碑銘に載っているという。
この話を聞いて、コメントをしたのだが、アインシュタインは墓碑銘をいわば公文書として捉えていたということである。公文書では明確であることが要求されるので、タイプ打ちの文書となる。その場合でも署名は直筆である。
一方、私文書の場合にはタイプ打ちの文書の場合は冷たい感じとなり、そういうことは避けるのが普通である。
私などはそういう常識も知らなかったので、私文書でもタイプ打ちをして送った苦い経験がある。そういうことをしないものだということはその後で知って恥ずかしい思いをしたものである。
ところが日本人にしてみれば、アインシュタインの直筆の墓碑銘をもらうとこれは価値があるように思ってしまう。その感じ方の食い違いが興味深い。
これはそれぞれの人の生きている文化観が違うので、どちらが良くてどちらが悪いという話ではもちろんないが、その感覚の違いをおもしろく思った。