物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

昔の知人

2015-03-20 12:55:32 | 日記
毎月の眼圧測定と検診に行ったら、たまたま昔の同じ職場の人と出会った。彼は私よりも前に退職しているから、たぶん私よりも年上であろう。

お互いに病院通いが欠かせなくなったねと話をしてひと時を過ごした。電車で通って来られているので、9時過ぎに出会ったのだが、結構早くに家を出ていると思われる。

でもお互いに病院通いをしながらではあるが、なんとか生きている。またの再会を祈って別れた。1年に1回くらいの割でこの Y さんに会うことがある。今度はいつまた会えるのであろうか。

ウィーン

2015-03-19 11:45:42 | 日記
ドイツ語を学んでいる人にはウィーンは特別のところらしい。もちろん、音楽ファンにとってはその通りであろう。

ベートベンだとかモーツアルト、ブラームス等の音楽家のお墓がウィーンの中央墓地にあるという。これはもともとウィーンの墓地が町から少し外れていたために墓地に親しくなってもらうために名誉墓地というものをつくったために音楽ファンの一つの目的地となったかららしい。

昔のことだが、ドイツで知り合った、そこに在住する日本人の中でもやはりウィーンに行ったことがあるとかそこで学んだことがあることはある種のステータスシンボルのような感じだった。

それがどこから来ているのかは私には定かではないが、やはりオーストリア・ハンガリー帝国の首都であるということとかから来ているのだろう。

だから、そこに行ったことのない私などは田舎者であるという感じだった。もともと田舎者だからそんなことにおそれは抱かない方だが、そういう風潮があるのだということだけは知った。

少しはこのウィーンに対する憧れを私ももつようになったけれども、その後ウィーンに滞在したことがあるのは2日か3日にすぎない。それも1週間ほど友人に誘われてオーストリアの田舎のある方の別荘で夏を過ごさせてもらったときに、ウィーンに足を伸ばしたことがあったからである。

オーストリアは山国であることはそのときに知った。もちろんアウトバーンはあるけれども、ドイツほど普及していないという感じだった。


テーマの不足

2015-03-19 11:19:16 | 日記
ブログをもっていたからと言って何か書かなければならないわけではないが、どうも強迫観念的に書く義務を感じている。

しかし、日頃のアクセス数は70-80くらいで日曜日は60くらいである。これはアクセスの順位で行けば、1万3千くらいを上下している。

もちろん、ときには9千くらいの順位になることもあるが、それは常にそうではない。goo全体では10万くらいまでの順位がついているらしいが、その10分の1にも入っていない。

別にアクセス数が多ければ、いいなどと思っているわけではないが、折角ブログを見に来て下さるからにはなにかはっとするようなテーマというか話題を提供したいものだとは思っている。

人生、どこかに救いを求めている人がおられ、そういう人のほんのわずかかもしれないが、ほっとするような、または、考えの転換をはかられるようなブログでありたいと思っている。

ところがどうも最近そのようなテーマが不足している。というか私にそのような感性が不足してきているのかもしれない。

年をとると何かにつけて感動することが減って来て、「それがどうした」と無感動または感性不足になってくることは避けがたい。ある種の老化である。

Schwarzの不等式

2015-03-18 11:22:40 | 日記
Schwarzの不等式というと数学の本のいたるところに出てくる不等式である。

Cauchy-Lagrangeの恒等式も多分このSchwarzの不等式の証明に使われることもあると思う。もっとも積分で表されたSchwarzの不等式もあり、ここ数日間量子力学の不確定性関係と関係してSchwarzの不等式を使う必要があった。

もっともそれはオリジナルな仕事ではなくて、私の先生の講義ノートの計算がわからなくてちょっとチェックをするためであった。有名なSchiffの量子力学のテキストと同じ証明のしかたなのであるが、記号だけを変えてあった。

そこをどうするかが決めるのに数か月も時間がかかったという体たらくである。昨日からそこの部分を入力したがまだ終わっていない。

いくつか仕事を多重にもっているので、どれかが放っておかれることが多い。それに毎日このブログも書きたいのだから、困ったものだ。

ありのままで

2015-03-17 16:06:45 | 日記
最近『アナと雪の女王』とかで「ありのままで」とかいう文句が流行っている。

それでそのことをインターネットで調べたら、Let it beではなくて、この歌ではLet it goと歌っているのだと知った。

どちらも単に日本語の訳としては「ありのままで」でいいそうだが、そのニューアンスは大きく異なるという。

もっともそういうことはあまり英語を使うことのない私たちにはどうでもいいのかもしれない。その違いを気にする必要があるようなら、そのときに学べばよい。

letという語は使役の意味で使われるとあり、インターネットではmake, have, get, letのそれぞれの使い分けの意味とかも出ていた。何でもすぐにわかるような時代になって来て有難い。

英文法からもう60年以上離れているけれども、それでもときにはそういうお勉強もいいかと思った。

朝日globeから

2015-03-16 11:25:47 | 日記
アメリカ英語で主人公がLet's get out of here(ここから抜けだそう)というのは常套文句だったそうだが、そのセリフが減っているという。

Rather than getting out of Dodge, the very latest protagonists are opting to stay.
(最近の主人公は抜けだすよりも「どどまる」ことを選んでいる)

とあった。protagonistという語を知らなかったので妻に聞いたら、彼女はすぐにスマホで調べてくれて物語等の主人公のことだという。この語は格式語なのかもしれないが、どこかで見たことは何度かあるが、意味は覚えられなかった。さて今度は覚えることができるだろうか。

あまり英語を読む方ではないので、よく英語の辞書にお世話になる。先日もシンガポールのある出版社からきた、パンフレットにtributeという語があって、英語の辞書を引いた。これは賛辞というような意味らしい。

C. N. Yangという学者の賛辞を書いたF. J. Dysonの第二番目の論文集のPRの文句である。Yangも90歳を超えたが、Dysonの方も多分90歳くらいである。それで第2論文集を発行することができたらしい。

最近は日本の大学の予算が限られてきたためか、このシンガポールの出版社の本の売れ行きがひょっとすると悪くなっているのではあるまいか。日本の学者や研究者が多分本を購入する数が減っているのであろうか。

日本の大学の財政事情がこのアジアの学術書の出版社に影響を与えている可能性は大きい。

これはちょっとこの話とは異なるが、マルクス=エンゲルスの著作を購入する数が日本がいままで多かったという話を聞いたことがある。MEGAと題されるこれらの著作集の編者に日本人がなることもあるとか聞いたが、日本の学者の学問への寄与は大きい。

習慣の違い

2015-03-15 14:03:13 | 日記
今日の朝日新聞の写真を見ていて、気がついた。イギリス王室のウイリアム王子が福島を訪れ、地元の子どもとヨーロッパオークの木を植えたという英語が出ていた。

To leave a momento of his visit, William planted a memorial European oak tree with the help of local children.

(福島を)訪れた記念に、ウイリアム王子は地元の子どもたちとヨーロッパオークを植えた。

とあった。

いま習慣の違いを感じたのはこの英語のことではない。このときの写真では、王子はスコップを一緒に持っている子どもの顔を見ているのに、このこどもは多分女の子だが、ちょっとうつむいていて王子の顔を見ていない。スコップに気をとられているという気もするが、やはり王子の方を下からちょっと見上げているべきだったろう。

もっとも王子は日本人がはにかみ屋さんであることをご存じだろうし、気にはされてはいないだろう。しかし、この辺にも日本人と欧米人との習慣の違いを感じたのは私だけだろうか。

この習慣の違いの克服は私たちにとってそう簡単ではない。

caustic

2015-03-14 11:56:55 | 日記
causticなんて英語を知っている人は専門家でなければ、かなりの英語通である。私もよくは知らない。カタストロフィー理論に一時迷どわされていたころ、そういう風なタイトルの論文を見かけたことがある。

多分、論文のプレプリントだったのだろう。それを捨てたという記憶もないから押入れの奥を探せば、そのコピーが見つかるであろう。

いまはしかしそういうことではない。S 先生の著書『虹』(恒星社厚生閣)のなかにエアリーという人の論文が引用されており、そのタイトルの末尾がCausticであった。そして S 先生はこの語を「焦線」と訳されている。この語が単独で出てくるとなんだかわからないが、続けてこの語は「焦点」という語と対比して考えればよいと書かれていた。ともかく「焦線」という訳語はなかなか印象的でよい(注)。

それで、いつもコタツの上にある、学習英和辞典を引いてみたが、この語は載っていなかった。それでしかたなく本棚から岩波の大英和辞典をとりだして見たら載っていたが、訳語は「火線」とか「火面」とかであって、「焦線」ではなかった。

岩波の理化学辞典を調べるのが面倒なので失礼をするが、Websterの英語辞典を引いてみると繊維とか紙を化学反応で燃やしたり、壊したりすることのできるものといった説明の後で

designatig or of the curved radial surface, or a plane curve in this surface, formed by the reflectoin or refraction of rays from a curved solid surface

とある。あまりよくはわからないが、後半の部分は「曲がった固体表面から出た光の反射とか屈折でできた平面曲線」とかいうことだろうか。これなら意味がわかるが、なかなかcausticとは難しいものだ。

ちなみに円筒形をした湯呑茶碗の中に見えるちょっとハート形に近い光の線がcausticの一番いい例であろう。これがどうしてできるのかは昔読んだことのある、金原寿郎著『物理の研究』下(旺文社)に説明があったし、これを高校の授業で物理の I 先生が作図して示してくれたことを覚えてはいるが、その現象をあまり深く考えたことは一度もない。

(注)「焦点」の英語はfocusであろう。

T君のこと

2015-03-13 12:11:20 | 日記
S 先生の「虹の科学」を読んでいたら、その参考文献に昔の友人の T 君が訳者の一人となっているらしい書籍があった。S 先生のそのことをメールで伝えたら、どうも T 君本人に間違いないらしいことがわかった。

T 君がまだ元気でいるかどうかはわからない。多分元気でいるだろう。彼は大学の教養部時代には天文クラブに所属していて、昼の時間になると天体望遠鏡を校庭に出して、通る人たちがその望遠鏡を覗いて太陽を見ることができたり、また自分自身が太陽の観測をしていた。

私は教養部の在学中に一年留年したので、彼は一年下であったが、彼も一年浪人をしていたと後で聞いたのでやはり実年齢も一歳年下である。多分1940年生まれか1941年生まれかであろう。

彼は高校では自分の好きな天体観測だったか、そういったことにまったく自由に生きてきたので、大学はすぐには入学できるところはなかったという。彼は言っていた。「僕は2次方程式に解の公式があるということは予備校に入ってようやく知ったんです」

大学で理系を目指すいまどきの人にそういう人がいるのかどうかわからないが、それくらい自分の好きなことだけをやってきた人だということである。

もっとも1年の浪人生活で大学に入学できたのだから、優秀な人である。その後も彼は挫折をしている。すでに大学院の入試では合格をしていたのに、数学の微積分の単位を一つ落としていた。

そのために卒業できず一年留年してしまった。つぎの年にその単位をとって卒業したが、大学院は K 大学の宇宙物理学専攻に入った。そしてそこを卒業後 N 大学の研究所に勤めていたが、最後は I 大学に勤めていた。

数学の微積分というと理学部では多分集合論の初歩を教えることで有名であり、計算することにかけては自慢の人の多い物理学科の学生でもその「哲学みたいなと悪評された」その科目の単位を落とすことはよくあった。

それでも2年生のときに落としても大抵に人は3年の再試験のときに単位をとることが普通であったが、それでもときには4年生のときにもその単位をとれない人も結構いた。

大抵はその学生の所属研究室の教授が微積分担当の数学の先生に頭を下げて単位をもらってくれたという例もあるはずである。

だが、T 君にはその頭を下げてくれる教授がいなかった。彼が指導を受けていた教授は理学部の教授ではなく、H大学付属の研究所の教授だった。

彼が書いたとは思わないが、物理学科の学生の集まりが出していた機関誌HBKにこの微積分担当の教授を揶揄したかと思われるような文章がその直前に掲載されていた。このとこをどこかで知った担当教授が腹を立てたのであろう。

その当時の機関誌の発行人をしていた T 君がその責任をとらされたという格好であった。別にこのことを T 君は愚痴るでもなく淡々としていた。なかなかできないことである。




確定申告

2015-03-12 12:19:50 | 日記
例年のごとく、確定申告の時期になった。昨日ようやく書類をつくって税務署に提出に行った。車の駐車場がなかなかとれなかったが、それでも待っているうちに駐車スペースがあいて、書類の提出はほんの数分で用事が終わった。

新聞によれば、書類をパコンでつくって、印刷して税務署に提出する人がおおくて、e-taxを利用する人な意外と少ないのだという。

私も数年はe-taxを利用したが、どうもうまく行かずプリントした書類を税務署に届けるという方式に変えた。その方が心理的に楽なのである。

どうも苦労して書類を作成したあげく最後に不具合がでたりして、落胆することが多かった。それもどうしてうまく行かないのかがわからないのである。

だから、多くの人がそういう心理的な負担を抱えているのだろうと推測する。それに国家としては税金を還付しなくてすめばそれに越したことはない。ちりもつもれば、山となるのだから。

コヒーをいれる

2015-03-11 10:12:01 | 日記
「コヒーをいれる」というのをドイツ語ではいつだったか、Ich koche den Kaffeeとか聞いた覚えがある。
kochenは英語のcookに対応した語だから、ちょっとそのときに日本人としては違和感を感じた。

いま手元の独和辞典を引いてみたが、この例は載っていなかった。別の独和辞典もひいてみるべきなのだが、面倒なので失礼をするが、別にIch mache den Kaffeeということができるかもしれない。すくなくともこう言ったらドイツ人だけではなく、ドイツ語を解する人はそれがおかしいと感じるかどうかは別にして言いたいことを理解してくれるだろう。

そういえば、何十年も日本人をしているのにこの「入れる」か「いれる」という日本語の意味をあまりよくは考えたことがなかった。

もちろん「入れる」とあれば、コヒーカップにコヒーを入れるという意味もあるだろうが、そうではなくてまずコヒーを沸かして入れるという風に解釈すべきだろう。

いま独和辞典を見たときに、kochenには沸す、沸騰させるというような意味があることを知った。それがIch koche den Kaffeeといういい方に現れているのだろう。

たとえば、「あなたにコーヒーを入れましょう」ならば、Ich koche f"ur Sie den Kaffeeなのか、英語風にIch koche den Kaffee f"ur Sieなのかまた疑問が出てきた。前の文の方がドイツ語らしい気がするが、よくはわからない。

政治家の条件

2015-03-11 09:51:27 | 日記
生々しい話だが、そろそろ愛媛県県会議員選挙が近づいてきた。それでだと思うが、選挙に立候補したい思う人の集まりがあったらしい。

立候補したい人は私の出た高校の後輩らしい。妻が誘われてその人の応援者の集まりに出たら、候補者がやってきたが、どうも保守系の候補者らしくて、まりどういうことを県議会に出てしたいとははっきりとはいわなかったという。

妻は最低限の応援はするが、政治家を目指すものはすべからく何をしたいかを表明するべきだろうと私に言っていた。この候補者のために弁明をしておけば、パンフレットには自分のしたいことが書いてはある。それが自分の目標であるというのだろう。だが、それはあまりに一般的過ぎて私には、ふさわしい立候補の目的には思えなかった。

オッペンハイマーの科学観

2015-03-10 16:30:01 | 日記
先日、ダイソンの「叛逆として科学」(みすず書房)を読んだときにおもしろく感じられたのはオッペンハイマーの科学観である。

オッペンハイマーは原爆の父とも呼ばれてロスアラモスで原爆の製造の指揮を執ったことで知られる物理学者である。

後世からみたら、オッペンハイマーの一番すぐれた物理学上の業績はアインシュタインの一般相対論の方程式のブラックホール解を見つけたことだろうとダイソンはいう。

ところが、このブラックホール解という業績をもとに宇宙に本当にブラックホールがあるのかを探したら、どうですかというダイソンの勧めにまったく興味を示さなかったという。

ダイソンはいう。それはオッペンハイマーの物理学上の関心事は物理の基本となる方程式を見つけることであったからだろうと。

ノーベル物理学賞受賞者のC. N. ヤンなどもオッペンハイマーの最大の物理学的業績はブラックホール解の発見であろうと述べている。そして、オッペンハイマーがもう少し長生きしていれば、この解の発見でノーベル賞を受賞できたのではないかとまで言っている。

ところが、オッペンハイマーはそういう解には関心を示さなかった。武谷三段階論でも本質的段階は方程式の発見といわれているから、方程式の発見がやはり昔の物理学者の夢であったのだろうか。

昨日はブログを書くのを忘れた

2015-03-10 11:46:13 | 日記
昨日は極めて忙しかったので、ブログを書くのを忘れた。それくらい忙しかったということである。

大体、そんなに暇ではないが息もつかせず仕事を片づけている。だから日頃ブログを書くことを一日のある時間をかけることにしているが、そのことを忘れるぐらいだった。

今朝は午前中に病院で特定健診という健康診断を受けてきた。結果は後で郵送される。

検査事項を十分絞ったために経費もそれほどでなかった。まあ、血圧とかは定期的に病院に行って測定をしてもらい、血圧降下剤をもらって飲んでいるし、特に自覚症状として問題はない。


数学・物理通信5巻2号の発行

2015-03-08 15:40:04 | 日記
昨夜、自宅にもって帰って数学・物理通信5巻2号の発行直前の原稿を読んでみたら、いくつかのミスを見つけた。

それでという訳ではないのだが、仕事場に来て修正をさきほどすませた。これで他の人からの修正がなければ、明日の午後にはめでたく5巻2号の発行となる。

他人の論文のために図を描いたり、文を修正したりしたために自分のエッセイの点検を怠っていた。

ほとほと今回は疲れ果てた。それで5巻3号の3月中の発行は取り止めにした。それでもまた新たな長文の投稿があったりして、もう6月の5巻3号の予定原稿は満杯である。もっとも5巻4号の原稿にあたるものはまだ手元にはない。

編集者としてはいかにもありがたいことである。『数学・物理通信』というサーキュラーには別に権威もないし、これに発表したとしても業績にもならないのに、投稿して下さる方々には感謝の言葉もない。

まあ、『数学・物理通信』に投稿された論文がきちんとした学術雑誌に投稿されたりすることはすでにあった。また、N先生の論文のコピペの論文はインターネットでも評判になったが、この論文をN先生は『素粒子論研究』電子版にも投稿されたらしい。

そういう中途段階としても役立っているといえるかもしれない。まあ、しかし、能力に限界のある人間のすることであるから3の倍数の月(3.6.9.12月)に1回ないし2回のサーキュラーの発行で我慢してもらうしかない。