私は大抵仕事場にこもって終日何かの文章を書いていたりする。
それは最近では初等的な数学のエッセイが多いのだが、それが生きがいというかやりがいのあることだと感じている。
普通の人から見たら、このことは奇妙に映るだろうと思っている。だが、その姿勢は変える必要を感じていない。
昔、大学院生だった頃、受験数学の神様のような感じがしていた戸田 清先生が H 大学を退官することになって、戸田先生のファンだった私はその最終講義を聞きに行ったことがある。
そのときに戸田先生は「啓蒙活動としての数学教育は十分にやった」とその最終講義で言われた。
だが、そういう意味とは全く違うけれども、私には数学教育の分野での仕事はまだまだやりつくされてはいないと考えている。いや、私が死んだ後でもやはりなかなかやりつくされないのではないか。
そういう意味では神様のつくられた世界を、いや、これは人間が関与して新たに創造していくことも含めての広い概念であるけれども、ときほぐすことをやり尽くすことはなかなかできない。そのほんの一部を私が掘り起こすという気持ちがしている。
素朴に神を信じるとかそういう気持ちにはなかなかなれない。しかし、それでもそういう広い自然というか事物というかそういうものに潜む自然の法則はあると信じている。
これも大学院生の頃に当時私たちのセミナーの指導教授だったOさんに宇宙の永遠の時間についてどう感じているか尋ねたことがあった。彼は「太陽系がなくなったあとでも自然の法則に従って宇宙は粛々と動いていくだろう」という世界観をもっていた。
それは唯物論的な思考をもった、科学者のもてる世界観の典型的なものであったろうか。いま私の世界観もそれに近づいて来ている。
それは最近では初等的な数学のエッセイが多いのだが、それが生きがいというかやりがいのあることだと感じている。
普通の人から見たら、このことは奇妙に映るだろうと思っている。だが、その姿勢は変える必要を感じていない。
昔、大学院生だった頃、受験数学の神様のような感じがしていた戸田 清先生が H 大学を退官することになって、戸田先生のファンだった私はその最終講義を聞きに行ったことがある。
そのときに戸田先生は「啓蒙活動としての数学教育は十分にやった」とその最終講義で言われた。
だが、そういう意味とは全く違うけれども、私には数学教育の分野での仕事はまだまだやりつくされてはいないと考えている。いや、私が死んだ後でもやはりなかなかやりつくされないのではないか。
そういう意味では神様のつくられた世界を、いや、これは人間が関与して新たに創造していくことも含めての広い概念であるけれども、ときほぐすことをやり尽くすことはなかなかできない。そのほんの一部を私が掘り起こすという気持ちがしている。
素朴に神を信じるとかそういう気持ちにはなかなかなれない。しかし、それでもそういう広い自然というか事物というかそういうものに潜む自然の法則はあると信じている。
これも大学院生の頃に当時私たちのセミナーの指導教授だったOさんに宇宙の永遠の時間についてどう感じているか尋ねたことがあった。彼は「太陽系がなくなったあとでも自然の法則に従って宇宙は粛々と動いていくだろう」という世界観をもっていた。
それは唯物論的な思考をもった、科学者のもてる世界観の典型的なものであったろうか。いま私の世界観もそれに近づいて来ている。