物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

広田良吾さんの死去

2015-03-26 13:01:13 | 日記
雑誌「数学セミナー」を見ていたら、広田良吾さんが亡くなられていたことを知った。享年82歳だった。

広田さんは非線形波動とかソリトンの研究で有名な方である。特に「広田の方法」とかが有名である。私が E 大学在職中に数学の先生が広田さんを非常勤講師に呼ばれた集中講義があったので、それを聞かせてもらったことがある。

もう一度は理学部の物理の D 先生が集中講義の依頼をされたので、その講義を聴講したことがある。非常に独創的な方であり、広田さんは現代の和算を起こされたとまで高く評価された方である。

講義もご自分の経験に裏打ちされたものであり、生き生きとしたものであった。ご冥福をお祈りする。

晩年は、差分法のことをいろいろと研究されており、その著書も出されている。研究の全容が明らかになるまでは発表をしないとそのときに伺ったが、その後私のもっている差分法の書籍でも2冊はあるから、全容を解明されたのであろう。

広田先生の、数学者の佐藤幹夫さんの評価はとても高く、「僕は天才などいるとは信じていなかったけれども、佐藤さんは天才ですね」と言われていたのを覚えている。

人は人を知るであろうか。

遠心力は実在しないか

2015-03-26 11:26:31 | 物理学
昨日、天気がよかったので、数か月ぶりに理髪店に出かけた。大体あまり理髪店がすきでないというか、どうしても行かなければならなくなるまで理髪店に足が向かない。理髪店泣かせである、私は。

理髪店の後に大街道の明屋書店にちょっと立ち寄ってみた。大体、出不精の私は散歩にも年に1回でもでかければ、よく行く方である。

書店に行くことも E 大学の生協書籍部に出かけるくらいで、ほとんど行かない。それでもときどきは思い出したように来たのだ。

そこでは最近はあまり数学とか物理の専門書はないのだが、松田さんという有名な宇宙論学者本を見かけたので、ちょっと手にとってみた。

その中に遠心力は存在しないとあった。これは彼がイギリスのある研究所に滞在していたときに誰かに遠心力は存在しない。それは見かけの力であると説得されたという話であった。

私たちの年代だと遠心力は見かけの力であると高校の受験勉強だとか大学教養部時代に学んだものだが、私は教養部時代に一時期だけ教わったことのある, O 教授は実際に力を感じることを体験できるのにそれを見かけの力という考えに反対だとお考えであった。いまでは私はその考えに賛成である。O 教授は思想的には右翼の先生であり、その点は賛成できなかったが。

もっともそれが根源的な力として存在しているかと言えば、存在しているわけではない。そこらあたりが慣性力だとか遠心力の限界である。だが、それは体験できる力であるという意味で遠心力を存在しないというのはどうであろうか。

山本義隆氏の駿台予備校の講義を記した本でも彼は遠心力は見かけの力だと丁寧に説明をしてある。だが誰でも経験できるものは実在しているという風に考えることにすれば、私は遠心力は存在しているという意見に組する。根源的な力として存在しているわけではないという注釈付であるけれども。

しかし、これは物理学者の間でも意見の分かれるところかもしれない。

地球上の重力加速度は地球の場所場所で違っている。これは普通は地球から受ける万有引力と地球上の各場所でそこにいる観測者の感じる遠心力の合成である。したがって地球の回転軸から離れている赤道近くが重力加速度の測定値が小さいはずである。

第一、人工衛星を打ち上げる、打ち上げ基地が赤道にできるだけ近いところにとられているというのはそういう遠心力を利用するためと聞いている。

それに宇宙ステーションで重力が遠心力と打ち消しあって無重力になっているという説明も遠心力という概念が使われている。それはなかなか宇宙ステーションにいる人には地球上のいる人の視点に立っては現象を記述するのが難しいからであろう。

そんな宇宙ステーションまで行かなくても道路が右または左に大きくカーブしていれば、車に乗っている人は曲がる方向と反対方向に力を受けるのを感じる。車に乗っていなくて地上に静止している観測者からみれば、そんな遠心力はどこにも出てこないけれども、車に乗っている人には現実に力が働き、ある程度自由に動ける小さい物体が車中に存在していればそれは実際に運動もする。

「なんでも体験したものがすべて事実だ」などとは言わないが、この遠心力は現実に普遍的に誰でも体験できる(付記)。

(2020.9.25 付記)人間が極限状態で感じる神秘体験などがある。確かにこういう神秘体験は経験できるといういう意味では事実だが、それは「ものを生産する」とかの実践に使えるわけではない。「なんでも体験したものがすべて事実だなどとは言わない」と書いたのはそういう意味である。

にわか塾

2015-03-26 11:17:30 | 日記
10時過ぎに近所の小学校1年のこどもが二人算数と国語のドリルを持ってやってきた。私の家は急遽にわか塾に変化した。

妻が子ども好きであるので、ときどき近所の子どもがやって来る。とは言ってもたいていは妻のもっているタブレットのアニメを見たいがためである。

そのせいかどうだかはわからないが、おばちゃんの家の中で塾のドリルをやりたいと考えたのであろうか。

前に妻がつくっていた5を表すタイルとかなんかを使って数の計算をしている。2ページのドリルができたら、飴を1個食べてもよいというご褒美付である。

二人とも2ページのドリルを何回かクリアして、飴をしゃぶっていた。その後は我が家はジムに早変わりである。彼らがウォーキングマシンで遊ぶのである。やれやれ。