物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

Googleが提訴された

2020-10-22 12:40:40 | 社会・経済
Googleが提訴されたという。

確かに検索ソフトではもうGoogleの天下であることはまちがいがない。そしてそのことには普通の私たちは不都合を感じてはいないが、こういう独占的状況はたしかに憂慮すべきだと言われればそうかもしれない。

難しいところであるが、将来の新しい技術なり、会社の可能性の芽を摘んでいるのではないかと言われれば、そうかもしれない。

Googleへの提訴は政治的な理由もあるのかもしれないが、他の側面があることも私たちに教えてくれた。



9月に気をつめたので

2020-10-21 11:53:08 | 数学
9月に気をつめたのでかどうかわからないが、10月はどうものんびりして緊張した仕事に入る気にならない。歳だから仕方がないのだろう。

もっとも仕事としての形にはならないが、その背後での努力はすこしはしているつもりである。

しかし、なかなか具体的な形にはなかなかなりそうにもない。しかし、11月になれば、また9月に書いた論文の校正がくるだろうし、12月が近づいても来るので、今年最後の「数学・物理通信」の発行が12月にはある。

なかなか気の抜けない一年ではある。


たまたまだが、べつに

2020-10-21 11:19:56 | 本と雑誌
たまたまだが、この数日のうちにフランス語のタイトルのブログが2回続いた。

これはたまたまであり、別に自分の学をひらけかすような意図をもっていない。
でもそういう風に思われてもしかたがなかった。

たまたま目についたフランス語を記憶にとどめて書いただけなのであるが。
外国語はそれを知っている人にはなんでもないが、知らない人には疎外感を与える。

心しなければならないのだが、ついついその心得を忘れてしまう。たとえば、私のあまり知らない中国語やハングルでブログを書く人がいたら、私だってちょっと体が引けてしまうかもしれない。

私のブログをときどき訪れてくださる方はNHKのEテレのドイツ語とイタリア語の放送は録画されて見ていると言われる方もおられる。世の中はいろいろだから、大学の仏文科を卒業された方もおられよう。

いつだったか松山にドイツの方がグループで来られた時に、松山の名所の一つの石手寺で流ちょうなドイツ語でそのゆかりを説明される女性を見かけた。この人は英語も堪能な人だったらしい。隠れた人材はいろいろ多い。



歯の点検

2020-10-20 16:51:15 | 本と雑誌
歯の点検に行った。半年ごとに来てくださいとは言われているが、そうはいっても半年ごとには行けない。それでも2月に前には行ったと思うので8か月ぶりくらいである。

治療した虫歯はあるし、どうしても抜かねばならなかった歯もあるのだが、それでもまだ自前の歯が多いほうだと思う。

8020とかいうが80歳にして上下だともちろん20本以上の歯が残っている。

先日、ドイツ語のクラスのときに歯のことを聞かれたが、年の割にはまだたくさん残っているほうである。

そのときに本来なら、下の歯が18と上の歯が18あると言われたが、36本全部はもちろん残っていないが、上下で抜かなければならなかった歯は4本ぐらいだと思うのでそれだと32本くらいは残っているのではないかと思う。

目の方は放っておくと緑内障で目が見えなくなるので、そうなると大変と思って、ほぼ1月に1回は眼科に通って診てもらっているし、眼圧を下げる目薬をほとんど毎日挿している。

J'enseigne, donc je suis

2020-10-20 09:50:35 | 本と雑誌
J'enseigne, donc je suis. (ジャンセイニュ、ドンク ジュ スィ)というプラカードを掲げている写真を朝日新聞でみた。

これはもちろん有名な哲学者のデカルトの言葉Je pense, donc je suis(ジュ パーンス、ドンク ジュ スィ)をもじったものである。Je pense, donc je suisは「われ思う、ゆえにわれあり」という意味である。

それに倣えば、J'enseigne, donc je suis.は「私は教える、だから私は存在している」とでも訳せようか。

これは先ほどパリの中学校のある先生が授業中に イスラム教の聖者の風刺画を見せたというので、イスラムの狂信的な信者(?)に刺されて亡くなったことと関係している。

この先生は毎年この写真を見せて言論の自由か何かについての講義をされていたそうであり、今年も前もって気分が悪くなる生徒があるかもしれないので、その場合には教室を出てもいいと生徒には指導されていたらしい。

それでもその授業をされたことがどこかから漏れて今回の惨事となった。

そういう授業は始めからしないのがいいのか、そうではなくて、授業はするがきわめて大きな配慮をするのがいいのか。私には早急に結論を出すことはできない。

(注)
「je esnseigneは j'enseigne(ジャンセイニュ)となるべきではないかと思うが、写真をよく見ていないのでしかとは言えないが、je esnseigneとあったように思う」と書いたが、夜に自宅に帰って再度新聞の写真を見たら、ちゃんと j'enseigneとなっていた。思い込みで書いたのはわるかった。




ガウスの定理とストークスの定理の覚え方

2020-10-19 16:56:39 | 数学
ガウスの定理とストークスの定理の覚え方といってもあまり知られていない方法ではない。微分形式を知っている方なら、既知のことであろう。

いまさっき志村五郎さんのちくま学芸文庫の『数学をいかに使うか』の第2章の一部を読んで、微分形式を形式的に知るだけでも、ガウスの定理とストークスの定理の覚え方となることを知った。

どうもストークスの定理のどちらの項に負号がついているのかとかは、覚えにくいし、覚えていてもごっちゃになる可能性があると思っていた(注)。

最近、微分形式でないストークスの定理とか平面上のグリーンの定理とかの証明を調べていてマイナス記号がつく項の存在がどうも積分変数の順序の入れ替えと関係しているようだと思いだしたので、志村さんの本の当該箇所をチェックしてみた。

そしたら、案の定そうだった。前にちょっと微分形式を勉強したことがあったが、すぐに内容を忘れてしまったし、それに以前にはガウスの定理とストークスの定理と関係させて微分形式を学んでなかった。

志村さん自身がストークスの定理で項のどちらに負号がついているのかわからなくなりそうだと書かれている。だからこの符号の問題は私だけがごっちゃになるわけではなさそうだという感じがしていた。

もっとも志村さんの本にはガウスの定理の方については微分形式では示していなかった。それでスウの『ベクトル解析』(森北出版)の該当ページで補足しなければならなかった。

(注)これは定理を証明するときの問題である。ベクトル記号でのそれぞれの定理の表し方にむつかしいことがあるわけではない。


Nul n'a 'et'e prophete en son pays

2020-10-19 11:46:05 | 物理学
Nul n'a 'et'e prophete en son pays. (ナル ナ エテ プロフェート アン ソン ペイ) 「誰も自分の国では、予言者だったことはない」(注:アクサンは記入できないので省略してある)

というフランスのことわざを書いた本を昨日見かけた。物理学者の高林武彦さんの書いた本である。

高林さんはフランス語ができるので、フランス語のことわざを書いてあったのだった。

この場合にはナル(誰も)とは坂田昌一先生のことを意味する。

Nul n'est prophete en son pays.(ナル ネ プロフェート アン ソン ペイ)と現在形でいうのが普通らしい(注)。この意味は「身近な人に認められるのは難しい」という含意をもつらしい。このことはLe Dico(白水社)に出ていた。
 
(注)普通フランス語の否定は動詞をneとpasで挟んで使う。しかし、pasを伴わない語がいくつかある。有名なのはrienであるが、nulもそのうちにはいるのだろう。personneもそういう語だったと思う。

Il n'y a rien(何もない)だとか Il n' y a personne.(だれもいない)とかいう風な文句が思い浮かぶ。


zoomでのオンライン帰省

2020-10-17 15:53:32 | 本と雑誌
数日前に子どもから連絡があって、zoomオンライン帰省をしたいという。

それでいつかいつかと待っていたら、昨日連絡があり、今日の土曜の15時からオンライン帰省をするというので、今日の15時を待ちかねていたが、つい先ほどそのオンライン帰省は終わった。

ディスプレイ上ではあるが、家族が顔を見れるのはうれしい。

子どもたち夫婦が元気そうにしていることがまず喜ばしい。私たち夫婦もおかげで元気にしている。

これだと今年の正月もオンライン帰省をしてくれそうだ。


前に読んだ本がわかりはじめた

2020-10-17 12:16:23 | 物理学
前に読んだ本がわかりはじめた。これは昨日も書いたかもしれないが、太田浩一さんの『電磁気学 I』(スプリンガー・ジャパン)のガウスの定理とストークスの定理の箇所である。

前に読んだときにはあまり感銘を受けなかったし、よさがわからなかったが、今度は少しわかるようになった。これはある種の発見法的な説明である。

ガウスの定理とストークスの定理が、「微積分学での基本定理」の一般化になっているということである。このことを最近の多くのベクトル解析の本で述べられるようになったが、そのことがこれらの定理の証明にあまりきちんと反映されていないと思っていた。

もっとも、ストークスの定理の方はもうちょっと書き方を改善できないものか。

双対基底と相反基底

2020-10-16 14:11:30 | 数学
双対基底と相反基底という類似の概念がどうちがうのか。迷っている。

相反基底(reciprocal bases)とは結晶幾何学での基底をさす。ところが一方でまったく同じようなベクトル空間での双対ベクトル空間でも元のベクトル空間でのベクトル基底と積をつくると、1となるような基底を双対基底(dual base)という。この場合の双対はdualというのが普通である。

ところが、これはおなじものものを結晶幾何学では相反基底という。

双対は「そうつい」と読む。「そうたい」と読むと相対性理論の相対とまちがえるからである。

ベクトル解析のテクストの中でこの相反基底という語を使っているのは吉本武史さんの『数理ベクトル解析』(学術図書)にしかこの表現を見ていない(注1)。

他のベクトルの本はほとんど双対基底という語を用いている。

双対性ということについて詳しい議論をしてある書に高橋秀俊先生の『数理と現象』(岩波書店)がある。

それでこれも昨日だったか、朝起きたときにすぐにこの書を出して、その部分を拾い読みして見たのだが、この二つは違うとかいてあったが、それでもはっきりとちがうとまで言い切ってはいないようである(注2)。

数学の用語辞典みたいなものの中にその違いがあるのかと探してみたが、あまりそういうことを書いてあるものを見つけられなかった。

(注1)結晶幾何学の本を除く。双対ベクトルのいい例は結晶幾何学で現れる相反基底だと思うのだが、それに言及してある書はあまりない。

(注2)実はこの本棚のすぐ前に私のベットがある。

(2022.2.8注) 言葉だけは双対空間だとか双対ベクトルだとかなじむようになったが、微分形式とかでも線形汎関数だとかいわれてもなかなかぴんとはこない。もっとピンとくるような説明をしなければなるまいと思う。

ガウスの定理とストークスの定理の歴史を書いてあるのは、

2020-10-16 11:22:25 | 本と雑誌
ガウスの定理とストークスの定理の歴史を書いてあるのは、太田浩一さんの『電磁気学』のテキストであることを知った。

太田さんのテクストは3つの出版社から出ている。私が今朝起きてから見たのは『電磁気学 I 』(丸善)であるが、いまシュプリンガー・ジャパン版を見ると I 巻の付録 A にまとめて収められている。

今朝、ちょっと思いついて太田さんの本を見てよかった。もっとも彼の本に書かれた内容を解読しなくてはいけないのだが。

太田さんは頭のいい人なので、簡潔に書かれている。それはこれだけ大部な本を書くのだから、各部分が簡潔になるのはしかたがない。

すべて原典に当たって書いた、電磁気学のテクストなどあまり聞いたことがない。


昨日は最高裁が非正規社員を見捨てたと書いたが、

2020-10-16 11:16:05 | 本と雑誌
昨日は最高裁が非正規社員を見捨てたと書いたが、今日の新聞では同じ最高裁の第一小法廷は日本郵便の契約社員の権利をみとめた認めた、判決を出した。

第三小法廷とは異なった判断を出したことになる。妻はこういういろいろな闘争によって少しづつ社会が改善されるのだろうという。

それはそうだが、なかなか社会の改善は遅々として進まない気がする。それはともかく、部分的には昨日の発言は撤回しておこう。もっとも昨日の発言も間違っていたとはおもわないので、そのまま残しておこう。


最高裁は非正規社員を見捨てた

2020-10-15 13:50:53 | 本と雑誌
最高裁は非正規社員を見捨てたと思うようなこのごろの判決である。

40%の人が非正規社員だともいわれる。これだと20年後くらいにはみんな生活保護を受けなくては生活ができないようにならないのか。

それにいまの政府は国の負債を少なくするどころか増やすことをしている。だからこの負債は20年くらいすると利いてくる。にっちもさっちもいかないようになる。

私は老人だから20年後に生きてはいないのだが。



硬派の内容と軟派の内容と

2020-10-14 13:15:21 | 数学
硬派の内容と軟派の内容とがうまくミックスしているといいのだが、どうも堅い話が多いブログである。

これは自分の関心の向くままにブログを書いているので、大多数の人には面白くない話にどうしてもなる。

しかし、なんといってもブログに書く内容はそのときの自分の関心事であるから、どうしても一般の人にとって難くなるのは避けられない。

昨日もベクトル解析のガウスの定理とストークスの定理の証明を書いた本の文章を読む学習が続いた。私の場合にはだいたい本を読むときは上面を読んでわけがわからなくなることが多いので、今回は文章を書き写している。

そして、気になったところはもちろん計算をチェックする。これは私があまり理解力がないためにそうするのだが、普通の人もそうするであろう。

ただ、私の場合には80歳を越えてから、そんなことをやっているということだけがちがう。普通の人は学生時代にそういうことをするのに。でもまだ生きているうちにしているから、まあ許してもらえるかもしれない。

子どもが男の子であれば、

2020-10-13 10:38:36 | 本と雑誌
夕食のときも妻と話すかもしれないが、よく話すのはやはり朝食後である。夕食後は後片付けを妻がしたり、私がしたりするので、そんなに心の余裕がない。もちろん、今日みたいに妻が午前中に何かの会に行かないときという限定条件があるのだけれども。

日曜日の朝に話をしていたら、妻がときどき誰かとお茶を飲んだりする人は大抵子どもが男の子だという。女の子の子どもを持つ人は娘と何かすることがあり、あまり暇ではないのだという。

妻も子どもは男の子ふたりだったので、結局は同じ境遇の人とつきあうことが多い。

Hさんも、また別の H さんも、Sさんもみんな息子ばかりだという。ふしぎなものだが、自然とそうなっているというから、不思議である。

お母さんにとって娘は成人しても、なにかと接触があるということらしい。息子は成人すると、それなりに独立した存在になる。これは自宅に一緒に生活している場合にでも、そうだというから不思議なものである。

だから、男の子を子どもとして持っている母親は絵を描いて個展を開いたり楽器の演奏をならったり、または書道に専念したりする場合が多いのかもしれない。