老木の根はいっこうに水を吸い上げようとしない。それでも私は枯れかけた木に懸命に水を与え続けようとしている。
私は懲りもせず、またまた近代美術館のコンサートに出かけたのだった…。
気づいてはいなかったのだが、近代美術館(中央区北1西17)では11月1日~7日までを芸術週間として、コレクションギャラリーを無料で開放したり、3本のミュージアム・コンサートを集中的に開催したりしたようだ。
11月3日に続いて、7日(水)午後、柴瑞穂さんのピアノコンサートがあった。
柴さんのコンサートも現在特別展として開催されている「藤田嗣治と愛書都市パリ」を意識した「巴里からの便り」と題するコンサートだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/11/60390c421181f7a6e45373525a51a4ae.jpg)
今回の特長は演奏する前に柴さんが一曲一曲について解説してくれることだった。柴さんは「柴瑞穂とお話コンサート」を継続的に開催しているとあってお話が上手なうえ、柴さん自身がパリ滞在経験があったため、お話も演奏も興味深く伺うことができた。
例えば、ラヴェルの「水の戯れ」とドビュッシーの「水の反映」の二つの曲の演奏を前にして「ラヴェルの水は飲めるけど、ドビュッシーの水は飲めない」と評されている話を紹介してくれた。その話を聞いて演奏を聴くと、なるほどラヴェルの曲はキラキラとした水の輝きが感じられるようだが、ドビュッシーの曲はどこか淀んだような重い感じがする曲に聴こえてくるような気がした。
また、3日に聴いた景山裕子さんと同じ曲が2曲演奏され、二人の演奏を聴き比べることができたのも興味深かった。ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」と「月の光」である。
景山さんの演奏がどちらかというと柔らかく聴こえてきたのに対して、柴さんの方はもう少しメリハリの利いた演奏に聴こえてきた。
柴さんはパリに滞在したときに美術館で藤田嗣治の絵を観た話とか、地下鉄コンコースの500m美術館で出会った作品と演奏する曲を結びつけたり、興味深く演奏に誘う工夫が凝らされていた。
柴さんのような解説付きのコンサートは、クラシックファンの裾野を広げる意味ではとても有効な手段ではないだろうか、と思えたコンサートだった。
そして私はコンサートの後、遅ればせながら「藤田嗣治と愛書都市パリ」~花ひらく挿絵本の世紀~展に足を向けたのだった。(その感想は明日に)
私は懲りもせず、またまた近代美術館のコンサートに出かけたのだった…。
気づいてはいなかったのだが、近代美術館(中央区北1西17)では11月1日~7日までを芸術週間として、コレクションギャラリーを無料で開放したり、3本のミュージアム・コンサートを集中的に開催したりしたようだ。
11月3日に続いて、7日(水)午後、柴瑞穂さんのピアノコンサートがあった。
柴さんのコンサートも現在特別展として開催されている「藤田嗣治と愛書都市パリ」を意識した「巴里からの便り」と題するコンサートだった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/11/60390c421181f7a6e45373525a51a4ae.jpg)
今回の特長は演奏する前に柴さんが一曲一曲について解説してくれることだった。柴さんは「柴瑞穂とお話コンサート」を継続的に開催しているとあってお話が上手なうえ、柴さん自身がパリ滞在経験があったため、お話も演奏も興味深く伺うことができた。
例えば、ラヴェルの「水の戯れ」とドビュッシーの「水の反映」の二つの曲の演奏を前にして「ラヴェルの水は飲めるけど、ドビュッシーの水は飲めない」と評されている話を紹介してくれた。その話を聞いて演奏を聴くと、なるほどラヴェルの曲はキラキラとした水の輝きが感じられるようだが、ドビュッシーの曲はどこか淀んだような重い感じがする曲に聴こえてくるような気がした。
また、3日に聴いた景山裕子さんと同じ曲が2曲演奏され、二人の演奏を聴き比べることができたのも興味深かった。ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」と「月の光」である。
景山さんの演奏がどちらかというと柔らかく聴こえてきたのに対して、柴さんの方はもう少しメリハリの利いた演奏に聴こえてきた。
柴さんはパリに滞在したときに美術館で藤田嗣治の絵を観た話とか、地下鉄コンコースの500m美術館で出会った作品と演奏する曲を結びつけたり、興味深く演奏に誘う工夫が凝らされていた。
柴さんのような解説付きのコンサートは、クラシックファンの裾野を広げる意味ではとても有効な手段ではないだろうか、と思えたコンサートだった。
そして私はコンサートの後、遅ればせながら「藤田嗣治と愛書都市パリ」~花ひらく挿絵本の世紀~展に足を向けたのだった。(その感想は明日に)