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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

対雁に移住させられた樺太アイヌ

2012-11-14 23:35:21 | 札幌学 & ほっかいどう学
 樺太の先住民族であるアイヌが国の都合で北海道の対雁(現在の石狩市)に移住させられ、移住してからも国の都合に翻弄されてという樺太アイヌの悲哀の歴史を学んだ…。 

 国の都合とは、…。
 1875(明治8)年、日本とロシアの間で樺太千島交換条約が締結され、それまで樺太で生活していた先住民族のアイヌが国籍の選択を迫られ、841名ものアイヌが海を渡りいったん宗谷へ移住後、翌1876年に対雁に強制移住させられたという。

 11月11日(日)午後、北海道開拓記念館(厚別区厚別町小野幌53-2)が開催する歴史講座「対雁に移住させられた樺太アイヌの暮らし」に参加した。会場の地下室講堂には50名くらいの受講者が集まり意外に関心が高いことを教えられた。
 講座は2部に分かれていて、第1部が「勧業政策と対雁の樺太アイヌ」と題して記念館学芸員の山田伸一氏が、第2部が「対雁学校の歴史」と題して道立アイヌ民族文化研究センターの研究職員の小川正人氏がそれぞれ講師を務められた。

          
          ※ 講義をする学芸員の山田伸一氏です。

 ここでは樺太アイヌが対雁に移住させられた経緯とその後を中心にレポートすることにする。
 樺太は北海道と同様にアイヌ民族が先住民族として生活をしていたが、そこへ和人が進出し、続いて南下を狙うロシア人も進出し、一時は三者が混在する形が続いた。
 そこで日本とロシアが樺太の領有をめぐって諍いが絶えなかったのだが、上述したように1875年に日本政府は樺太を捨て、見返りに千島列島全域を領有するということで交換条約が締結された。
 その際、アイヌ民族に対して、日本かロシアかの国籍選択を迫り、108戸841名が日本国籍を選択し、宗谷へ移住した。(当時の日本政府は宗谷へ移住という約束をアイヌと交わした)

          
          ※ 質問に答える研究職員の小川正人氏です。

 しかし、日本政府としては北海道の産業振興のため対雁に移住させて労働力として活用しようと考えたようだ。この移住はかなり強制的だったようだ。
 対雁に移ったアイヌは官営事業(農業試験場、製網所、馬具製造所、靴製造場、製革所など)の手伝いに従事するがほとんどは上手くゆかず、サケ漁やニシン漁に従事することになったようだ。対雁の生活はかなり劣悪で、1879~87年にはコレラや天然痘で大量の死者を出したという。
 そんな中、靴製造場、製革所などに従事した者の中から技術を習得し開業した者も中にはいたという。しかし、大多数の者は馴染めずに悲惨な暮らしをしていたようだ。

          
          ※ スライドで対雁のアイヌの様子を写した貴重な写真が提供されました。

 
 そのような樺太アイヌは、1905年日本が日露戦争に勝利し樺太の南半分が返還されるとほとんどの者が樺太に帰っていったという。

 北海道のアイヌとはまた違った意味で時の政府に翻弄された樺太アイヌ…。彼らの末裔は太平洋戦争によって再び樺太がロシア(当時はソ連)領となってしまった。私が調べたところでは樺太アイヌのほとんどが日本に強制送還されたらしい。しかし、中には樺太にそのまま居ついたアイヌもいたということだ。

 アメリカの先住民もそうだったが、日本(樺太、北海道)における先住民も後から襲ってきた時の政府に翻弄されるという屈辱を負わされたようだ・・・・・・・・・。