田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

コンサ今季初観戦 勝つには勝ったが…

2014-04-20 19:01:29 | スポーツ & スポーツ観戦
 コンサドーレ札幌の今季ホーム4戦目にして初めての観戦となった。試合は1対0でコンサが勝ち点3を積み上げた試合だったが、久しぶりの観戦にしては心躍るサッカー観戦とならなかったのが残念だった…。

          
          ※ 相変わらず熱かったのはコンサの熱烈サポーターの一団だった。 

 コンサドーレの戦いが始まってから、こんなに初観戦が遅れたのは初めてではないだろうか?それだけ私の中からコンサ熱が冷め始めている証かもしれないのだが…。
 本日、対ザスパクサツ群馬戦の観戦を決めたのは、対戦相手のザスパクサツ群馬がJ2の下位に低迷しているチームなので、J1を目ざすコンサとしては群馬を圧倒して勝ってくれるだろうと期待して観戦を決めたのだった。

          
          ※ キックオフ前に健闘を誓い合うイレブンの輪が解けようとするシーンです。

 試合は上述したとおり1対0で勝ったのだが、その試合ぶりが私にはとてももどかしく感じられたのだ。
 内容的に見れば、どうしても応援しているチームに厳しい見方になってしまうのだが、群馬の方が良い試合をしていたのでは、と思われる試合だった。
 どちらも決定的チャンスは少なかった試合なのだが、両チームともに相手の凡ミスから決定的なチャンスがそれぞれ訪れたが、それを決めたのがコンサ、決めきれなかったのが群馬という試合だったように思う。

          
          ※ スタジアム内に数多く掲げられた激励幕の中から札幌らしいものを見つけました。

 コンサの試合ぶりを見ていて歯痒く思うのは、ゴール前までボールを運びながらも細かなパスを選択してチャンスを逃してしまうことが多すぎたことだ。なぜ、ゴールが見えたときに強引にでもシュートを選択しないのだろうか?まるで一時期の日本代表の試合を見ているようだった。
 コンサに上手いサッカーなんか期待していない。泥臭くても必死でゴールを狙い続けるようなひたむきさを期待したいと思うのだが…。

          
          ※ コンサのキッカー菊岡選手がコーナーキックを蹴った瞬間です。ボールがぶれて写っています。

 今日の試合を見ていて、コンサの試合ぶりはまだまだJ2仕様の戦いぶりだったと見えた。このような戦い方では、例え運良くJ1昇格を果たしたとしても、直ぐに降格してしまうというこれまでの繰り返しになってしまうような気がする。今シーズンようやくJ1昇格を果たした徳島が8連敗と苦戦しているように…。

          
          ※ 唯一の得点をあげヒーローとなった前田選手のヒーローインタビューの様子です。         

 どうしても贔屓するチームには厳しい見方をしてしまう私だが、コンサに早い段階でのJ1昇格を望まないほうが良いのではないかと思う。じっくりと力を蓄え、J2戦線を圧倒するくらいの力が付いたときにJ1昇格を果たしてほしい、と私は願う。
 コンサは資金難もあって、チームの半数近くがユースからの昇格組が占めると聞く。そうした若手が力をつけてきてコンサの主力となり、J2を席巻できるようなチームになるのがある意味では理想ともいえる。

 そんなチームが出来上がったときに、再びコンサブームが巻き起こるのではないだろうか?

映画 119 それでも夜は明ける

2014-04-19 23:38:59 | 映画観賞・感想

 念願だった今年のアカデミー賞作品賞を受賞した「それでも夜は明ける」をこのほど観ることができた。黒人問題を扱った映画だと聞いていたが、予断をもたないよう、事前にストーリーなどは読まずに観たのだが…。

           

 私は黒人問題を扱った映画と聞いて、いわゆる社会派映画と思っていたのだが、必ずしもそうではなかった。19世紀のアメリカには、奴隷黒人と自由黒人という、同じ黒人でも境遇の違う黒人がいたそうだ。自由黒人は、同じ黒人でも自由な生活ができたという。
 その自由黒人の一人であった主人公ソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)が1841年に白人に誘拐されて売り飛ばされ、12年間にわたって奴隷生活を強いられたという実話を題材にしたものである。

 確かにソロモンの奴隷生活は、人権蹂躙はおろか、奴隷黒人がおかれた過酷な状況を描き出している。それはいかに奴隷制度が非人道的なものであったかを間接的に訴えてはいるが、ストーリーそのものはソロモンが奴隷黒人から脱するまでの過程を描いた映画だったと言えるのではないだろうか?

   

 そのソロモンだが、自由黒人として振る舞っているときは奴隷黒人が存在していることに対して奴隷解放に対して何かアクションをしていたかといえば、そのあたりは描かれていないし、どうも自らの立場を守るだけに汲々としていたようだ。
 また、映画の中で自らを護るために、そして奴隷黒人の立場から脱出するために、同じ奴隷黒人に対して酷い仕打ちもしている。(そう振る舞わなければならなかったソロモンの立場も理解できなくもないが…)

          
          ※ 主役のソロモン・ノーサップ役を演じたキエェテル・イジョフォーです。

 映画は自由黒人だったソロモンが理不尽な形で拉致され、12年間もの間奴隷生活を強いられながら、自由黒人に戻るために諦めずに可能性を追い求め、ついには元の家族の下に還った一人の黒人の物語を描いたものである。

 アカデミー賞受賞作という期待で観に行った私としてはいささか期待外れの感がないでもなかったが、声高に奴隷制度について直截的に批判するよりは、この映画「それでも夜は明ける」のように、画面から滲み出る残酷さ、理不尽さ、あるいは滑稽さの中に奴隷制度の矛盾を炙りだしていたところが評価されたのだろうか??

 なお、ソロモンの名誉のために追記せねばならないが、自由黒人に戻ったソロモンはその後、奴隷解放のために活動したという記録が残っているそうである。

 そして、もう一つ。消費税増税によってシニアの観賞料金が4月から1,100円になっていたことを今回初めて知った。う~ん、仕方のなこととは思うけれどねぇ……。


ロシア クリミア併合の真相を聴く

2014-04-18 17:46:57 | 講演・講義・フォーラム等
 ロシアが何故あそこまで執拗にクリミア半島にこだわったか?そこには民族間の争いを調停するという表の理由の他に、もっと奥深い理由があったと、道新解説委員の菅原淳氏は解説した。 

 チ・カ・ホ空間を会場に行われた「道新ニュースカフェ」で4月11日、「ソチ五輪 カメラを通して感じたこと」に続いて、午後5時からの「これがニュースの焦点だ クリミアの危機、どこから!」という道新解説委員の菅原淳氏の話を聴いた。

               

 菅原解説委員は、道新のコラム欄「卓上四季」の執筆担当を経て、現在道新の新解説企画で第1、第3日曜に掲載している「ニュースがわかる」を担当しているという、いわば道新のエース記者の一人と言っても良い方のようだ。

 菅原氏は「ロシアが何故あそこまでクリミア半島にこだわったか?」について、次のように分かり易く説明した。
 菅原氏が用意したのは、何枚ものロシアを中心とした地図だった。
 その地図を用いて、ロシアの国が海に向けて開けているところは、北極海とオホーツク海が主であることを眼から理解させた。
そしてもう一ヵ所、ボスポラス海峡を挟んで外海と通じている黒海にわずかに面している。その黒海に突き出るように位置しているのがクリミア半島である。

 ロシアにとって、北極海、オホーツク海が冬季に凍結してしまうのに対して、黒海だけは冬も凍らないということで、ロシアにとっては貴重な海になっているという。
 それは多分に軍事的意味からなのだが、クリミア半島にはロシアの黒海艦隊が租借権をウクライナとの間で設定して駐留しているそうだが、この租借権を巡ってウクライナとの間で争いが絶えなかったらしい。
 そこで今回の混乱の中で、世界からの非難にも耳を貸さず、強引に自国に編入したということが真相のようだ。

          
      ※ 左手の司会の質問に答える形のトークショーの形を取ったのだが、司会が逆効果に思えるほど酷かった。

 このことは、新聞報道などから私も概略は理解していたことだったが、菅原氏はそのことを何とかより分かり易く説明することに意を用いていたようだった。
 最近は北海道新聞だけではなく、各紙がこのようにニュースを分かり易く伝えるために心を砕いているように見える。
 このことはやはり、池上 彰 氏の登場が大きかったのではないだろうか?
 彼が世界の中で起こったニュースや世界情勢を分かり易く伝えたことで、世の中から大歓迎を受けたのを目の当たりにして、これまでニュースを伝える側だった人たちは大反省を迫られたのだと思う。

 世界で起こっていることが、一人でも多くの人たちにその事象の本来の意味を理解することは、世界の平和を維持していく上でも大きな意味があることだと私は思う。

えーっ!沈没した韓国客船が- !?

2014-04-17 15:46:14 | その他
 沈没して多くの犠牲者を出し大変な事故となった韓国客船が、今春私が乗船したフェリーの先代だったとは!

          
          ※ 今春、私が鹿児島⇒奄美大島間を乗船した新造船「波之上」です。

 
 韓国で客船が沈没するという痛ましい事故が発生し、その船の定員が921人と聞いて「あゝ、自分がこの春乗ったフェリーと大きさが同じくらいの大きな船だなぁ」と思って聞いていた。

 今日、テレビのワイドショーをなんとなく見ていたところ、韓国客船が沈没したニュースを取り扱っていた。その画面にフェリー「波之上」と書かれたフェリーの写真が映った。
 フェリー「波之上」は、今春私が奄美群島巡りをした時に、鹿児島から奄美大島まで乗ったフェリーである。
 「なぜ、そのフェリーが?」と見ていると、なんと、それは私が乗った「波之上」の先代だったことが判明した。説明によると、日本で18年間使用された後、改修して昨年から仁川⇔済州島に就航しているとのことだった。

 それで合点がいくことがあった。
 私が乗ったフェリー「波之上」は新造船で、船内に竣工が平成24年と表記されていたからだ。つまり入れ替わるように韓国に売却されていたらしい。
 フェリー「波之上」に乗ったことを私は2月24日付ブログで次のように記している。

 「フェリー『波之上』午後6時無事出発しました。想像していたよりはるかに大きなフェリーです。全長145m、5階建てで、定員は702名とのことです。名前がちょっと古風ですが、平成24年竣工の新造船ですのでなかなか快適です。」 

 フェリーに乗船した時、私は万が一にも事故などということは考えなかった。
 今回の乗船した修学旅行生をはじめ韓国の皆さんも同様だったと思う。それくらい大きくて、頼りがいを感じさせる船だった。
 それが今回のような大惨事である。
 多少の縁を感ずる私は、一人でも多くの方の命が救われることを切に願いたいと思う。

写真記者が見たソチ五輪

2014-04-16 21:22:40 | 講演・講義・フォーラム等
 女子ジャンプでは高梨選手の優勝を信じて、好位置を確保して7時間も待ち続けその瞬間を待ったという。冬季五輪なのに、日向ではTシャツでも過ごせたとか?現地で取材したからこそのエピソードの数々を聞いた。

          
 北海道新聞が「春の新聞週間」に合わせて、札幌駅前地下歩行空間(チ・カ・ホ)の北3条広場に「ニュースカフェ」を開催した。
 この催しは、コーヒーを飲みながら、新聞を読んだり、さまざまな催しを楽しんだりする場所として4月11~13日の間、北海道新聞が開設したものだ。
 私はたくさんあったミニイベントの中から、三つのトークイベントに参加してみた。

          
          ※ 取材のために持参したカメラなどを据え、質問に答える中川記者です。(右側)


 その手始めに参加したのが、4月11日(金)午後に行われた「ソチ五輪 カメラを通して感じたこと」と題して話をした道新写真記者の中川明紀氏のトークショーを聞いた。

 中川記者は2月いっぱいソチに滞在し、大会期間中は一日に数千カットの写真を撮り、そのうち期間中に200枚前後の写真が新聞に掲載されたという。だからソチに関する道新の写真は全て中川記者の手によるものといえるようだ。

 いろいろと楽しいエピソードを聞いたが、その中から特に印象的だったことレポートしてみることにする。

 リード文でも触れたが、写真記者にとって大切なことの一つは決定的なシーンを切り取るために好位置を確保することだという。女子ジャンプは今回の五輪でも最も金メダルに近い種目と目されていたことは我々の良く知るところだった。
 そのため、中川記者は好ポジションを確保して競技開始を待ったという。その時間、競技時間も含めて寒空の下に計7時間も立ち尽くしたという。決定的瞬間を撮るためにはそれなりの苦労が付きまとうということのようだ。

               

 次に、面白いエピソードを聞いた。
 開会式のことだったという。開会式の模様は撮ったその場でそのデータを本社(札幌)に送信することになっていたという。ところが、会場内では観客の多くが携帯電話を使用しているために通信状況が極めて難しかったらしい。
 困っていたところ、開会式にロシア大統領のプーチンが登場したときだったという。会場内のロシア人たちが揃って大統領に向かって拍手を送ったという。つまりその時、ロシア人たちは携帯から手を放したらしい。その瞬間に通信状況が良くなり、無事に写真データを送信することができたそうだ。
 中川記者はそのとき、ロシアにおけるプーチンの権威(権力?)の大きさを感じたという。しかし、それ以上に、中川記者にとっては無事に職務を遂行できたことにホッとしたというのが本音ではなかったろうか?

 今回、中川記者はカメラを3台、望遠レンズも大小3台、さらには三脚などを持参したという。
 それら写真記者にとっての七つ道具を背負って、時にはスキー場を上ったり、好ポジションを確保するために寒空の下で待ち続けたりと、苦労の裏側を知ることができた意味のあるトークショーだった。

東京下町ウォーク 12 門前仲町 編

2014-04-15 21:56:09 | 道外の旅

 「富岡八幡宮」と「深川不動堂」の門前町と称される門前仲町…。私はこの街にあるホテルに3泊もしながら、最後の最後になってようやくこの街を巡ったのだった。そして名物(?)「深川丼」も食してみた。 

   
   ※ 私はこのマップの緑の部分の「深川不動堂」と「富丘八幡宮」を巡っただけの下町ウォークでした。

 神楽坂コースの散策を終えてもまだ少し時間があった。そこで予定を変え、朝旅装を整え旅立ったはずの東京メトロ〔門前仲町〕駅に降り立った。
 私がいつもホテルに向かうための出口とは反対の出口から地上に出ると、そこはもう「深川不動堂」の山門が立っていた。
 山門から続く参道はそれほど長くはないが、参道の両側には食事処や菓子店、土産物店などがびっしりと並んでいた。

          
          ※ 通りに面したところ派手な色遣いの山門が立ち、そこから短い参道になっていました。

          
          ※ 参道には食事処や土産物屋などがたくさん並んでいました。

 その参道を進むと、立派な本堂が見えてくる。この深川不動堂は正式名称を「成田山 深川不動堂」と称するように、千葉にある成田山新勝寺の別院ということである。
 実は私が本堂と思ったところは旧本堂で、隣に建てられていた現代的な建物が本来の本堂らしい。

          
          ※ 正面の本堂と思われたところは旧本堂で、その横に黒く長方形に見える建物が新しい本堂だということです。

 旧本堂の前に「慈恩如来」という金色に輝く仏像が鎮座していたが、その像の金箔の剥がれを寺の関係者が補修していた。好奇心の塊(?)の私はついつい聞いてしまった。「何をしているのですか?」と…。すると彼は親切に答えてくれた。「信者さんが自分の体の悪いところに金箔を貼ってお祈りすると効用があると言われていて、皆さんが貼った金箔の補修をしているのです」ということだった。
 境内にはその他にも、さまざまな形で集金するシステムが散りばめられているように私には見えた。私はそうした寺の関係者からは歓迎されざる存在なのかもしれない。何の寄進もすることなく寺を後にしたのだった。

          
          ※ この仏さまに貼られた金箔を寺の関係者が熱心に補修していました。

 続いて、敷地的には隣にあると言って良い「富岡八幡宮」を訪れた。
 人々からは「江戸最大の八幡さま」「深川の八幡さま」として親しまれているそうであるが、私としては江戸勧進相撲発祥の地として相撲関係の碑がたくさんあるということで興味があった社(やしろ)である。

          
          ※ やはり通りに面して立つ大鳥居です。本殿のバックにビルが見えるのはいかにも都会の神社ですね。

          
          ※ 御本殿を写した時には上手く背景のビルを写し込まずに撮れました。

 通りに面した大鳥居を潜ると直ぐに江戸後期に測量家として名を成した「伊能忠敬」像が立っていた。

          

 その向かいには、相撲に関わる「大関力士碑」、「巨人力士身長碑」などが並んでいた。
 面白かったのは「巨人力士身長碑」である。その碑の高さは最高身長力士の高さと同じ碑を建てたのだろうと思われる。私が横に立って手を伸ばしてもとても頂点に手は届かなかった。ちなみに最高身長力士は生月鯨大左衛門(いけづき-げいたざえもん)といい、身長2m30cmと記されていた。

          
          ※ 「巨人力士身長碑」は左側の碑なのですが、比較にするものがないためその高さは分かりづらいのが残念です。        
      
 信心深くない私は御本殿にはあまり興味がなく、その本殿の裏手にある「横綱力士碑」に向かった。
 「大関力士碑」よりは当然のように立派な碑であったが、面白いと思ったのはその碑の立っている位置である。大関碑が表参道の入口という誰からも目に付く位置に立っているのに対して、横綱碑は本殿裏手という人の目に付きにくい位置だったことだ。
 このことは、素人考えでは相撲界においては「横綱」という制度が後年になって定められたために、「大関力士碑」が先に立てられて、その後「横綱力士碑」が境内の空いていた敷地に立てられたのではと想像されるのだが、果たして?

          

 時間の関係もあって、私はこの「門前仲町」コース全てを歩いたわけではなく、この街を代表する二つの施設を巡っただけだった。
 そしてせっかくなので、この地の名物(?)「深川丼」を食してみようと思った。
 「深川不動堂」の参道にも深川丼を謳った店があったが、こうした店を避けて脇道に入った小さな和食堂「たこ井」という夫婦で切り盛りしている店に入った。
 まったく予備知識なく注文した「深川丼」であるが、ご飯の上に、アサリ、ハマグリやアオヤギとネギなどの野菜などを煮込んだ味噌汁をかけた丼だった。味の方は、貝類があまり得意でない私には、特別に美味しい丼だとは思えなかったのが残念である。

          
          ※ 私が「それほど…」と思ったから、写真の写りが悪くなったとは思えないのですが…。

 と、あまり信心深くないところを暴露してしまった東京下町ウォークの最後だった。今回、三日間にわたって東京の下町を巡り歩いたのだが、また東京の奥深さを知った思いである。
 田舎者故、少しでも多くの街を見たいと多少駆け足になったキライはあるが、北海道では出会うことのできないたくさんの光景に出会えた下町ウォークを私は心から楽しむことができたと思っている…。


東京下町ウォーク 11 神楽坂 編

2014-04-14 23:54:07 | 道外の旅

 「飯田橋」駅から「神楽坂」駅に通ずるメインストリートは文字どおり坂の街であり、猥雑さも感じさせる街だった。しかし、裏通りに一歩入ると閑静な雰囲気に包まれた中に料亭や老舗が軒を連ねる歴史を感じさせる街でもあった。 

     
     ※ 私はマップの右端の「飯田橋」駅から複雑な経路を辿り、左端の「神楽坂」駅まで散策した。

 東京滞在最後の8日、帰札の便は夕方5時過ぎということで、私は粋な街で知られる神楽坂を散策してみることにした。

 東京メトロ南北線を駆って〔飯田橋〕駅に降り立つと、いきなり猥雑な感じの町並みが目に飛び込んできた。
 そんな中に、全国で唯一「ペコちゃん焼」が買えるという「不二家 飯田橋神楽坂店」が目に入る。全国唯一ということで記念に購入を!と思ったのだが準備中ということで購入は叶わなかった。

          
          ※ 飯田橋駅前にあった「不二家 飯田橋神楽坂店」です。駅前の猥雑感が感じられすねぇ。

          
          ※ メインストリートですが、道が坂になっているのがお分かりいただけると思います。

 東京メトロ東西線〔神楽坂〕駅に至るメインストリートは別に通り名があるようだが、一般的にはその通りを「神楽坂」と称しているようだ。その通りは名称のとおり緩やかな上りが続く道だった。
 その「神楽坂」を歩きはじめてほどなく、小路へと導かれる。
 「神楽坂仲通り」、「かくれんぼ横丁」、「本多横丁」、「芸者新道」といった具合だ。
 歩を進めるにつれ、異空間へ導かれる思いだった。小路の両側には大小の料亭や老舗がひしめいている感じである。「こんな小路に、これだけたくさんの店があって成り立つのか?」などと要らぬ心配をしながら辺りを散策する私だった。

          ※ ここから5枚の写真は、神楽坂らしい雰囲気を醸し出している写真です。

          

          

          

 帰宅してから調べてみると、神楽坂も一時の隆盛とは隔世の感があるとのことだ。大正時代には花街として隆盛を誇っていたようだが、最近は街の様子も徐々に様変わりしているらしい。それでも一歩小路に入ると歴史が脈々と息づいているということか?

          

          

 経路は複雑に折れ曲がりながら歴史を感じさせる「東京理科大学近代科学資料館」に導かれる。資料館の内部を覗かせてもらったが、そろばん・計算尺・手回し計算機・電子式卓上計算機、等々…、あらゆる事務機器の歴史が展示されているようだった。圧巻は第一世代の商用コンピュータが展示されていたことか?

          
          ※ 東京理科大学近代科学資料館の古風な外観です。

          
          ※ 館内にはありとあらゆる事務機器が展示されているように思われました。

          
          ※ 商用コンピュータの第一世代にあたる機器が剥き出しの状態で展示されていました。

 その後も神楽坂の小路に展開する界隈の散策が続くのだが、その途中創業60年という老舗割烹の一つ「割烹 加賀」の店の前を通った。すると店の前にお品書きが置かれていたので一部手に取り、中を見ると「お昼の献立」、「ご夕食 会席コース」とあった。昼会席の方は4~6千円くらい、夕食の会席で7千円~1万数千円くらい、となっていた。老舗であっても今はのんびり構えているわけにはいかなく、こうして大衆化を図らねば生き抜いていかれないということか?

          
          ※ 老舗割烹 加賀のエントランスです。右の椅子のところにお品書きがおかれていました。

 コースは晩年をこの地で過ごしたという作曲家で筝曲家の「宮城道雄記念館」(休館日だった)を経由し、メインストリートに戻り、この地のランドマークともいわれる「善國寺」に至る。朱色の鮮やかな建物が周りから浮き上がっているようにも見える。

          
          ※ ”神楽坂の毘沙門天”と親しまれているという「善國寺」です。

 そこから再び小路に導かれるのだが、私はこの一角にある「神楽坂茶寮」というちょっとレトロな喫茶店で一服を、と思っていたのだが開店が11時30分ということで願いは叶わなかった。こんなところは神楽坂が夜の街ということの表れだろうか?

          
          ※ このレトロな雰囲気に魅かれたりですが、入店は叶いませんでした…。
          
 願いが叶わなかった私は、今風のチェーン店であるカフェで一休みした後、メインストリートを「神楽坂」駅に急いだのだった…。

          
          ※ メインストリートといえども、この道路の狭さです。
          

 それほど大きな街ではなく、表通りと裏通りでは違った貌をもった神楽坂はなかなか興味深い街だった。


東京下町ウォーク 10 駒込~王子 編

2014-04-13 20:14:36 | 道外の旅

 都心から少し離れた、山手線の外側にあたる駒込から王子までのワンウェイを散策した。このコースには「旧古河庭園」、「旧渋沢庭園」、「飛鳥山公園」といった由緒ある公園や庭園が並んでいた。

          
          ※ 私はこのマップの左下の駒込駅から右上の王子駅に向かって散策したのでした。

 この日、7日(月)は「国会議事堂(衆議院)」と「日本銀行」の見学を予定していた。「国会議事堂」が午前9時から1時間程度、「日本銀行」が午後3時から1時間程度ということから、その間を利用して「駒込~王子」間を散策を計画した。

 地下鉄を乗り継いで、地下鉄南北線「駒込」駅に降り立ったのは10時過ぎだった。
 いつのときもそうなのだが、地下鉄を降り立って地上に出たときに、進む方向を定めるのが一苦労である。この時もそうだった。
 このコースでは、まず地上に出て駅すぐそばの小さな公園にある「染井吉野櫻発祥の里」碑をチェックした。碑の傍の染井吉野は葉桜状態になっていたが、その近くの樹が満開状態で見事な染井吉野を愛でることができた。

          
          ※ 「染井吉野櫻発祥の里」碑のバックのサクラは残念ながら葉桜になっていました。

          
          ※ しかし、石碑のすぐそばの染井吉野櫻は満開の時を迎えていました。

 さて、ここからの私の進路がモデルコースから少しずれてしまい、しばらく脇の細い住宅路を歩くことになってしまった。方向としては間違っていなかったので、しばらく行ったところで本来のコースに戻った。
 この日は4月初旬だったのだが、日向は暑いくらいで日陰を求めながら歩いた。
 
 ウォークを始めて10分くらい経っただろうか、塀に囲まれた大きな敷地が現れた。「旧古河庭園」である。古河財閥が築いた庭園ということだが、現在は国有となり、それを東京都が管理しているということだ。
 都内にはさまざまな旧財閥が築いた庭園があるが、この「旧古河庭園」は洋館と洋風庭園、日本庭園が斜面を利用して巧みに組み合わされた構成になっている。洋館が現存していることで往時の財閥の生活が偲ばれた旧古河庭園だった。

          
          ※ 旧古河庭園の落ち着いたたたずまいの入場口です。

          
          ※ 庭園の中に建つ洋館です。豪壮な生活ぶりが偲ばれます。

          
          ※ 斜面を利用した洋風庭園です。

          
          ※ 斜面を下ったところに日本庭園が築かれていました。

 旧古河庭園を後にして、通り沿いに「国立印刷局東京工場」という建物があった。後から見学した日本銀行で聞いて初めて分かったことだが、「印刷局」はお札の製造、「造幣局」はコインの製造と、役割分担していることを恥かしながら初めて知った。

          
          ※ 国立印刷局東京工場の入口のところでシャッターを切りました。

 続いて、「飛鳥山公園」内にある「旧渋沢庭園」を訪れた。ここは渋沢栄一の邸宅跡ということだが、そこに保存されている国の重要文化財「晩香廬(ばんこうろ)」の渋く落ち着いた建物をカメラに収めた。

          
          ※ 旧渋沢栄一庭園内に建つ重要文化財の「晩香廬(ばんこうろ)」です。

 次は、同じ敷地内の「飛鳥山公園」である。この公園は徳川8代将軍吉宗が1200本余りの桜を植えて、江戸庶民に開放したといわれる公園である。ちょうど桜の満開時期に好天も加わり、多くの都民が訪れて賑わっていた。

          
          ※ 不思議なことに飛鳥山公園ではサクラの写真を一枚も撮っていませんでした。写真は飛鳥山公園の由来を記す石碑です。

 実はこのコースを選定した理由の一つは、この公園内にある「紙の博物館」、「北区飛鳥山博物館」、「渋沢資料館」の三つの博物館を見てみたいと思ったことだった。特に「紙の博物館」をぜひ見たいと思った。ところが!? なぁ~んと、この日が月曜日だったことを失念していた。三館ともに休館日だった…。

          
          ※ ぜひ見てみたいと思っていた「紙の博物館」は休館日でした。

 というわけで、飛鳥山公園で桜を楽しむたくさんの人々の様子を横目に、高台にある飛鳥山公園から王子駅前に下りる「あすかパークレール」というレールの上を走る昇降機のようなもので王子駅前に運ばれたのだった。

          
          ※ 写真中央部に見える小さな箱のようなものがパークレールです。定員10人くらいでしょうか?


東京下町ウォーク 9 森下・清澄編

2014-04-12 23:12:16 | 道外の旅

 森下・清澄地区といっても東京に詳しくない人にとってはピンとこないのではないだろうか?私がそうだった。この地区は江戸時代には本所深川界隈と称された典型的な下町と言って良い地区である。また、この地区は俳人の松尾芭蕉ゆかりの地としても有名である。 

     

 「御茶ノ水・神田・秋葉原」編を歩き終え、同じ6日に電車を乗り継ぎ〔清澄白河〕駅に降り立った。
 まずは、隅田川の支流・小名木川を渡り、往年の人気漫画「のらくろ」の作者・田辺水泡が青年期まで深川で暮らしたことを記念した施設「田辺水泡 のらくろ館」を訪れた。江東区森下文化センターの一角に設けられた「のらくろ館」はのらくろワールド一色だった。
 私自身は漫画「のらくろ」にそれほどの思い入れがあるわけではないが、ファンにとってはたまらない施設なのかもしれない。

          
          ※ 商店街はのらくろ人気にあやかろうとしてか、「のらくろ市場」などという表記が見えます。

          
          ※ 森下文化センター内の「のらくろ館」の入口です。

          
          ※ 商店街のファンシーショップだと思われますが、のらくろ一色のデコレーションの店でした。

 続いて、下町風情が残る森下の街中を通り、「深川神宮」の横を通り、隅田川沿いに建つ「芭蕉記念館」を訪れた。
 展示は芭蕉作の俳句の短冊や友人への書簡などがあったが、格別興味あるものは見当たらなかったように思われた。それより、事情があって昭和の俳人・石田波響の生誕百周年記念の展示が目だっていたのが皮肉に思われた。

          
          ※ 建物自体は何の変哲もないコンクリート製なのですが、こうして入口に装いを凝らすだけで雰囲気が出ますね。

          
          ※ 非常に限られた敷地の中で江戸の情緒を醸し出していました。

 記念館を出て、隅田川沿いを少し歩いた。この日は雨模様の上に、風も吹いていたため隅田川の川面が波立っていた。その一角、隅田川が望めるところに「芭蕉庵 史跡展望公園」があり、芭蕉の座像が建立されていた。
 さらにも、その近くには「芭蕉庵跡 芭蕉稲荷神社」まであった。こうした史跡があるところから、どうやらこの界隈で芭蕉は生活していたらしい。

          
          ※ 隅田川は波立ち、右手向こうに見える屋形船が大きく揺らいでいました。

          
          ※ いかにも俳人・芭蕉といった趣きの銅像です。

          
          ※ 芭蕉と神社、あるいは神道との関わりは不明ですが…。

 ガイドブックの案内とは違い、私はこの後あに「清澄庭園」を訪れた。清澄庭園は明治を代表する回遊式林泉庭園といわれ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎と、その弟の岩崎弥之助によって築かれたものとされている。庭園内には全国各地から集めた名石がいたるところに散見された。
 また、庭園の一角には芭蕉の代表的名作「古池や 蛙飛びこむ 水の音」と刻まれた大きな句碑が立っていた。

          

          

          
          ※ 教養のない私には崩した文字はほとんど読めないのですが、解説もありなんとか読むことができました。

 続いて、清澄庭園の近くを流れる仙台堀川沿いの「芭蕉俳句の散歩道」を歩いた。芭蕉の18句が掲示されているということだったが、これが木の看板のようなものに句が書かれているという、いささかお粗末に感じられるものだった。日本史上最高の俳諧師とも称される芭蕉の句を掲示するに相応しい掲示方法があるのではないかと思ったのだが…。

          
          ※ 手前右側のような木札に書かれた18の句が並んでいたのですが、いかにも寂しく思われません?

 その散歩道の端には「採茶庵跡」があり、そこには再建された建物があった。芭蕉はそこから「奥の細道」の旅立ったという言い伝えから、芭蕉の旅姿の銅像があった。

          

 このコース最後に「江東区深川江戸資料館」を訪れた。
 ここの売り物は、江戸末期の深川佐賀町の街名を実物大で再現した展示であった。ちょうど昨年訪れた国技館横にある「江戸東京博物館」の下町版という感じだった。江戸の下町の庶民の暮らしが実感として理解できる展示であった。

          

          

          

 駆け足で紹介した「森下・清澄」の町並みだったが、レポートでもお分かりのように界隈は松尾芭蕉に関する史跡や展示に溢れている感じがした。
 また、界隈は高層ビルなども少なく、どことなく下町風情を残していたところが印象的な街だった…。


東京下町ウォーク 8 御茶ノ水・神田・秋葉原編

2014-04-11 21:35:25 | 道外の旅

 神田明神、湯島聖堂、ニコライ堂など落ち着いた雰囲気の御茶ノ水・神田地区を歩いた後、神田川を渡ると雰囲気は一変した。電気の街として、そして最近はオタクの街として栄える秋葉原は極彩色に彩られた華やかな街だった。 

 昨年7月に「東京下町ウォーク」としてガイドブックを頼りに7つの地区を散策した。今回は同じガイドブックに載っている下町の残りの地区を歩くことにした。したがって本日のタイトルを「東京下町ウォーク 8」としたのは、昨年の継続であるという意味をそこに込めたものである。

   
  ※ マップは左側の〔御茶ノ水〕駅をスタートして、〔秋葉原〕駅ゴールだったが、私は〔御茶ノ水〕駅をスタート&ゴールとした。

 〔新宿御苑前〕駅から東京メトロ・丸ノ内線で〔御茶ノ水〕駅に移り、〔御茶ノ水・神田・秋葉原〕地区を歩いた。
 丸ノ内線の〔御茶ノ水〕駅は明治大学や神田の古書店街とは神田川を挟んで反対側に位置する。はじめは、そちら側に位置する「神田明神」、「湯島聖堂」を訪れた。

 最初は江戸の三大祭の一つ「神田祭」を主宰する「神田明神」を訪れた。神田祭というとたくさんの山車が東京の街を練り歩く賑やかな祭りである。その祭を主宰する有名な神社にしては意外に敷地が狭いなぁ、というのが正直な感想だった。

          

          

 続いて、神田明神からそれほど離れていないところに、大きな敷地を持つ「湯島聖堂」を訪れた。徳川5代将軍綱吉が開いた昌平坂学問所の跡ということで、学問所は幕府の大学の役割を担っていたそうだ。現在の建物は関東大震災で被災した後、鉄筋コンクリートで再建されたということだが、その規模の大きさや荘厳さなど、幕府の大学的役割を担っていたことが頷ける雰囲気を漂わせた湯島聖堂だった。

          
          ※ 湯島聖堂の正門(?)「仰高門」です。

          
          ※ 平日はこの「杏壇門」は開かれていないとのことで幸運だった。


          
          ※ その「杏壇門」に奥に控えるのが大きな講堂の〔大成殿〕です。

                  
                  ※ 敷地内には儒教の祖として有名な孔子像が建っていました。

 コースは一度神田川を渡り(つまり文京区から千代田区に入る)、「ニコライ聖堂」を目ざした。遠くからでもドーム様式の青い色の聖堂を見ることができた。1891(明治24)年に建てられたビザンチン様式の聖堂は美しく、荘厳な雰囲気を漂わせていた。ただ、こちらも神田明神同様に敷地が狭かったのは、大都会ゆえの辛さなのだろうか?

                  

 コースは神田須田町という戦災を受けなかった古い建物が残る地区を往く。長く商売を続けているような由緒ある古い店が軒を並べているところをジグザグに通過した。

          

        
 そして再び神田川を渡ると,そこから街の雰囲気は一変した。秋葉原の街中に入ったのだ。コースは秋葉原の中央通りの一本脇道に導かれるのだが、そこが電気街だった。マニアのような若者が通りを埋めるように歩いている。試しにTSUKUMOの本店を覗いてみたのだが、店の中も若者でいっぱい。機械音痴の私にはチンプンカンプンな部品が所狭しと展示されていた。

          

          

          
          
          ※ 秋葉原らしい光景として載せました。「ひとりカラオケ専門店」とはいかにも秋葉原らしいと思いません?         

 ちょっと大きな通りに出ると、その通りにはメイドさんのコスプレをした女の子がメイドカフェへの呼び込みを盛んにやっていた。
 街中の建物は極彩色に彩られ、たくさんの人が行き交い、騒然とした感じだった。

          
          ※ こうしたコスプレ用の専門店も秋葉原では目立ちました。

          
          ※ いったい何をアピールしていたのか不明なコスプレ娘とデコレーションした車です。

 
 コースは〔秋葉原〕駅に辿りついてゴールだった。
 ずーっと以前に秋葉原を訪れたときは、純粋に電気街だったところが、現在は電気街はそれなりに健在だったが、それよりはむしろコスプレ文化やAKB48をはじめとするアイドルたちが闊歩するオタクの街に変貌を遂げたように思えた。
 このことについて私自身は深く考えたことはないのだが、電気部品やPC部品を組み立てたり、分解したりといった趣向の少年たちと、コスプレ文化やアイドル文化を愛好する人たちとの間に何らかの共通項があったということなのだろうか?などと秋葉原を歩いていて考えてしまった…。