『古代中国の文明観:儒家・墨家・道家の論争』
浅野裕一、2005、『古代中国の文明観:儒家・墨家・道家の論争』、岩波新書
京都往復のバスの車中で読んだ。
本書は、中国の儒家・墨家・道家における文明観・環境観の違いについて、おさらいする意味でお勉強になった。
春秋戦国の時代、中国は都市化と人口集中がさらに高まり、環境破壊が進んでいた。もちろん現代の問題からすると雲泥の差ではあるものの、それでも、中国の問題としては、黄河流域の乾燥化・砂漠化の淵源がここに始まっていたと見ることができる。
こうした時期、儒家は礼を中心とした周王朝の礼記を復元し、煩雑な儀礼手順の再構成を通じて中国の文明化を推進しようとする。彼らは、自然は際限もなく豊かであって人間の営みは微々たるもので影響を及ぼさないという立場である。これに対して、墨家は自然には限りがあり、文明をこのまま維持するためには、質素を心がけねばならないと説く。一方、道家は自然の営みを超越させ、人間の自然への介入を不可とする。すなわち文明そのものを否定しようとする。人間は小さな範囲で自然とともに生活し、その矩を越えず生きるべきであるというのである。
著者は、現代における環境問題の取り組みについて古代中国におけるこれらの思想と照合しようとする。さらには、文明の衝突と言うが、現代は文明は西欧文明以外にはなく、文化的個性が違うに過ぎず。大和魂といっても特攻隊が米船を攻撃するのは、西欧文明の武器革新の成果である飛行機や潜水艦ではないか。イスラム過激派の西欧文明への攻撃も西欧的武器を使用するではないかという。
このあたりのところは、詰める必要があろうが、しかし、文明観というのは、儒墨の間に違いに大差はなく、儒墨と道家の間に大いなる違いが認められる事は、大いに了解。しかし、環境観の違いにせよ文明観の違いにせよ、枠組みを超えて超越した思想が生まれ出ることはなかなか難しく思える。所詮、争いごともお釈迦様の手の上であったりするのだ。その意味で、道家の思想は、超越している。しかも、2500年も前にそうした思想が誕生した点、これは、すごいとあらためて思った。
高校生大学生のころ、老荘を読んだ記憶がよみがえってきた。すっかり忘れていた。もう一度読んでみるか。
京都往復のバスの車中で読んだ。
本書は、中国の儒家・墨家・道家における文明観・環境観の違いについて、おさらいする意味でお勉強になった。
春秋戦国の時代、中国は都市化と人口集中がさらに高まり、環境破壊が進んでいた。もちろん現代の問題からすると雲泥の差ではあるものの、それでも、中国の問題としては、黄河流域の乾燥化・砂漠化の淵源がここに始まっていたと見ることができる。
こうした時期、儒家は礼を中心とした周王朝の礼記を復元し、煩雑な儀礼手順の再構成を通じて中国の文明化を推進しようとする。彼らは、自然は際限もなく豊かであって人間の営みは微々たるもので影響を及ぼさないという立場である。これに対して、墨家は自然には限りがあり、文明をこのまま維持するためには、質素を心がけねばならないと説く。一方、道家は自然の営みを超越させ、人間の自然への介入を不可とする。すなわち文明そのものを否定しようとする。人間は小さな範囲で自然とともに生活し、その矩を越えず生きるべきであるというのである。
著者は、現代における環境問題の取り組みについて古代中国におけるこれらの思想と照合しようとする。さらには、文明の衝突と言うが、現代は文明は西欧文明以外にはなく、文化的個性が違うに過ぎず。大和魂といっても特攻隊が米船を攻撃するのは、西欧文明の武器革新の成果である飛行機や潜水艦ではないか。イスラム過激派の西欧文明への攻撃も西欧的武器を使用するではないかという。
このあたりのところは、詰める必要があろうが、しかし、文明観というのは、儒墨の間に違いに大差はなく、儒墨と道家の間に大いなる違いが認められる事は、大いに了解。しかし、環境観の違いにせよ文明観の違いにせよ、枠組みを超えて超越した思想が生まれ出ることはなかなか難しく思える。所詮、争いごともお釈迦様の手の上であったりするのだ。その意味で、道家の思想は、超越している。しかも、2500年も前にそうした思想が誕生した点、これは、すごいとあらためて思った。
高校生大学生のころ、老荘を読んだ記憶がよみがえってきた。すっかり忘れていた。もう一度読んでみるか。
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