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South Is. Alps
South Is. Alps
Coromandel
Coromandel, NZ
Square Kauri
Square Kauri, NZ
Lake Griffin
Lake Griffin


スープカレー

スープカレー(鳥もも肉をひざ下と上に切り分ける。フライパンにオリーブオイル、ガーリック薄切り、たまねぎ薄切りをいためる。これを、煮込み用の鍋に空ける。オリーブオイルを注ぎさして、もも肉を焦げ目がつくように焼く。赤唐辛子、クミンカルダモン、塩を加えて煮込む。カレー粉、醤油、ニョクマム、オリーブオイルを加えて味を調える。べつに、にんじん、ジャガイモ、ブロッコリー、ピーマンを塩茹でし、皿にあけて、出来上がったカレーを入れる)
札幌のスープカレーがどうつくるかか知らないけれど、とりあえず、一昨年に食べたものと比べてそれらしいものになった。

2006-02-15 21:09:53 | 夕食・自宅 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


『モノになる動物のからだ:骨・血・筋・臓器の利用史』

中島久恵、2005,『モノになる動物のからだ:骨・血・筋・臓器の利用史』、批評社

1990年のアラスカ大学での狩猟採集民学会で、ボランティアの一般家庭でホームステイさせてもらったことがある。このとき、南インドの研究者の「B」とルームシェアをした。インド人とは話したことがそれまでなかったので、結構、根掘り葉掘り聞いたことがある。それは、食べ物のことだ。
ある晩、ステイ先でローストビーフが出てきた。そのとき、ちょっと、どぎまぎした。というのは、ホストファミリーに問題があったのかと思い聞いてみると、私はもちろんであるが、「B」からも「禁忌食」の指定はなかったという。「B」は、たくさんではないがローストビーフを食べた。見たところ、何の抵抗もなく。先入観として持っていた「ヒンズーの牛肉食の忌避」が目の前で破られた。
その晩から、なぜの質問を連発することになった。「ヒンズー教徒なのか」「ベジタリアンではないのか」「いつもなにを食べているのか」、その他。きっと、「B」は「難儀なやつ」あるいは「馬鹿なやつ」と思ったことだろう。彼の答えは、「ヒンズー教徒である」「ベジタリアンとして過ごすことはある」「週に一度はチキンを食べる」「牛肉をインドで食べることはない」「牛肉は食べてみたかった」「牛肉はこれまで食べたことがある」など。
彼との話の要点は、こう。彼の月収は少ない。野菜は安く、チキンも含めて肉類は高価。従って、高価なものは毎日食べることはない。しかし、週に一度は食べることがある。牛肉は特別なところ以外では、インドでは入手不可能。牛肉は国外に出たときに食べる。「B」との食生活に関する対話は大変面白かった。
文化唯物論者のマーヴィン・ハリスによる『食と文化の謎』(岩波現代文庫)を引くまでもないことであるが、肉食はコストが高い。食肉となるまでには解体を含め、様々な手順が必要である。家畜飼育のためには飼料を与え、必要があれば広い面積の放牧場を必要とする。そして、食肉の利用の高さは、一人当たりのGNPに比例する。つまり、豊かになれば肉食率が高まる。そして、いっぽう、インドの牛に関する殺生戒およびベジタリアン的食生活(乳製品の利用、肉食の回避)は、肉食のための飼料(多くは植物資源で耕地で耕作されるために、人間が直接口にする食料資源の生産とバッティングする)を生産しないことは、多くの人口を維持するために順機能し、さらに、わざわざ飼料を生産しないでいることは、牛と人間と食資源がバッティングしない(インドでは牛を飼育するのに牛用の飼料を生産することはなく、人間が消化不能なセルロースを大量に含む副産物あるいは廃棄物が、これに当てられるという)ことにより可能となるというのである。

さて、本書だが、日本における動物の身体の利用について、歴史史料や民俗を引きながら、詳細に記述された労作である。そして、昨今のBSE問題の発生は、食肉の問題にとどまらず、牛の身体が様々な形で利用されていることをわれわれに気づかせることになった。さらには、本書に述べられているように、「これまで動物たちからどれほど多くのものを受け取ってきたかをたどることは、これからの社会と技術のあり方を考える上で、大きな示唆を与えてくれるに違いない。」
近代以前の日本は表向き仏教的殺生戒によって、表向きの動物食はなかったが、動物の身体は労役に用いるだけではなく、死後も様々な用途に用いられてきた。本書の副題にある骨・血・筋・臓器などがそれである。使役動物として利用するだけではなく、死後もその屍体を利用することはまことにエコロジーであると言えよう。
もっとも、BSEのきっかけになったと言われる食肉として利用可能な部分を取り去った後の部位を肉骨粉に加工し、飼料として「リサイクルした」ことがBSEの原因と考えられた悪性プリオンの拡散を招いたことは皮肉なことではある。このことは、人類学者のレヴィ=ストロースが「ベジタリアン」である草食動物の牛に「共食い」を強いたことを批判したこと(「狂牛病の教訓:人類が抱える肉食という病理」『中央公論』2001年4月号)がおもいだされる。

そして、本書の著者も指摘しているのであるが、「モノとしての動物の身体」の延長線に人間の身体も存在するのである。当然、人間の身体もモノ(物質)には違いはない。事実、人間の身体もしくは身体から派生するものについての様々な慣習が見られる。呪術行為としてのカニバリズムやナチスの行なったガス室で虐殺した屍体から石けんを作ったりする行為は忌避された。また、髪の毛や血液、精液を用いたブラックマジック、さらには、貴種の排泄物や沐浴後の湯を珍重する風習。そうした様々な世界各地の習俗のほか、現代では、献血や献体、受精卵(あるいは、胚細胞)や中絶胎児の利用、さらには、臓器移植といった「人間の身体の資源化」が進んでいるのである。
こうした文脈において動物の屍体の利用についての歴史学的、民俗学的、文化人類学的、社会学的な研究はきわめて重要であろうと思われる。その意味で、本書の持つ意味は大きい。

モノになる動物のからだ―骨・血・筋・臓器の利用史

批評社

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食と文化の謎

岩波書店

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2006-02-15 15:59:29 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )