すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「すみません」に溺れず生きる

2014年04月12日 | 読書

 「2014読了」39冊目 ★★★

 『「すみません」の国』(榎本博明 日経プレミアシリーズ)


 題名が実に「言い得て妙」だと思った。

 本来は謝罪の言葉であろうに,あまりに使われすぎて,感謝の場合も依頼の場合も呼びかけの場合であっても多用されている。

 そういえば,「すみません」という言葉に絡んだことを前にも記していた。

 
 この著は「すみません」の多用に象徴される国民性に焦点をあてたものだ。
 筆者は,プロローグで次のように書いている。


 本書では,日本を「状況依存社会」と特徴づけ,状況依存的なコミュニケーションの深層構造を浮き上がらせることを試みた。

 ビジネスシーンのみならず,政治・外交や日常生活なども含めて豊富に例が出されて納得できる。
 本音と建前を使い分ける日本人の習性を,ただ単に批判するのではなく,比較するなかで欧米人の心理についてもずばりと斬ってあり,優劣の問題でないことを考えさせられる。

 日本人がはっきりと主張しない,自分の意見をきちんと述べないことは言い尽くされており,それ自体食傷気味である。
 もう少し日本の言語文化の良さに目をつけたあり方が,積極的に提案されていいように思うし,そのためのヒントとなるようなこともあった。
 筆者はこう書く。

 人間,つまり「人の間」が「人」を意味するところから推測されるのは,私たち日本人は,「個」として存在するのではなく,「人の間」として存在するということだ。

 震災後に多く語られた「思いやりのコミュニケーション」は,まさしくその具現化の一つではなかったか。

 もちろん,そうした評価に安穏としていられない時代の流れはある。

 「話さなくてもわかる」という察する文化はもはや通じなくなってきていることは,一般的に語られている。
 そして,それは「話さなければわからない」ことに結びつくのは当然だ。

 言語活動の重視はまさにそこから来ているわけだが,今もっと迫っているのは「話してもわからない」感覚の拡がりではないか。
 その理由をずばりと括ることは難しいだろう。

 しかし,膨張する情報の中で,人が受け止められる量は限られているはずなので,収集や選択の仕方をより意識的に訓練することが間違いなく大事になる。

 そこを間違えると目の前の人間にさえきちんと正対できなくなるのはやむを得ない。

 マニュアル言葉のように「すみません」さえ言っていれば人間関係が潤滑になるわけではないことを肝に銘じたい。