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140年前の姿に今を重ねる

2014年04月22日 | 雑記帳
 開校記念日が近いので学校報に書くネタが欲しいと思い「百周年記念誌」を開いた。年表には「明治七年(一八七四)四月廿五日 前郷村西馬音内小学校と称し宝泉寺に創立、教員三名」と記述されている。今年で140年が経過したことだ。学制発布からわずか2年、早い開校だ。読みだすと興味深い記述が満載だ。


 驚いたのは「生徒不在で開校した」ということだ。学制の実施はまったなしで、県でも案をまとめて文部省へ提出、伺いを立ててから許可を得たようだ。従って開校時には儀式や祝宴等もなかったと記されている。上からのお達し、時代の要請に応えるために教場は決めたものの、途方にくれた出発だったようである。



 生徒募集がかけられ101名の生徒の申し込みがあった。しかし、その対象となる学区範囲は、おそろしく広い。現在の町全部と2隣市の一部を含むもので、今現在の小学校数を数えると8校分が該当している。距離にすればゆうに半径10kmどころか、20kmを超す箇所もあるようだ。おそらく全国各地もそうだったか。



 通学の不便は当然のこと、「子供は十歳ぐらいから労働させられていた」という状況を考えれば、実際の就学数が14人と記録されている点も肯ける。おそらくは地元名士の子ばかりであり、教育制度が地域に溶け込んでいくには、あまり過酷だったと言わざるを得ない。就学年齢や学科が定まるには時間が必要だった。



 その頃の様子を想像するには知識不足だ。じっくりと読み進めてみたい。皮肉なことは、学区の広さを制限するために次々と地区ごとの開校を決めていった歴史は、今まさに逆の様相を見せ始めている。広い学区に少ない子ども…表面上の共通点に大きな歴史の波を感ずる。いずれその少数が背負う世の中になるのだ。