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指導を学ぶ者が目指すこと

2014年04月24日 | 読書
 『教師におくる「指導」のいろいろ』(家本芳郎  高文研)

 指導言の代表は「発問」だとは思いながら、量的には「指示」を考える頻度が高かったように思う。
 授業とはある面で指示の連続で成り立っているとも言えるから当然かもしれない。

 その意味で家本先生のいう「経済性のある表現形式」を志向することは頷ける。
 小学校学級担任であれば、言うまでもないことだ。
 ただ、そのための学級集団づくりは欠かせない。
 つまりはこういう結論になる。

 授業の指示は、簡潔明快な経済的な表現によらねばならないが、その裏に授業スタイルをつくりだす細かな指導を必要とするのである。


 この著の例であれば「話し合って」という教師の一言で、班の動きや課題確認、そして話し合いまでが流れるところまで仕上げたい。

 こういった学級担任との阿吽の呼吸ともいうべき関係づくりが、指示を極限まで減らすだろうし、それは教師の力量を測るものさしの一つでもあった。

 しかし、例えば授業のユニバーサルデザイン化といった言葉に象徴されるような学級実態の中では、より緻密な言葉の選択が求められるし、表現の幅広さも追求しなくてはいけない。

 一方では形式的な約束事の徹底、もう一方では豊かな表現力の駆使、そういった二面性の使い分けが「指示」に求められている。


 そのほか「過程を見せて引き上げる」「失敗談を語る」等々、今の状況にあってもいわば「まねしたい」ことが豊富にある著である。
 ただ、「「まねる」ということ」と項目が一つ起こされていることから、学ぶべきことは多い。
 家本先生自身が批判をうけたことばとして紹介されている、次の言葉は今も噛みしめてみたい。

 他人の成功した実践例を聞くと、さっそくまねしてやってみたくなるが、そのときの状況やその人の実践体系から切りはなして、たんなる手としてうけとってしまうと、自分の実践のなかで有効であるとは限らない。


 ここにもしっかりと自分を凝視する姿勢の必要性が語られている。

 「指導を学ぶ」というダイレクトな言い方はしなくなったが、私たちの仕事は、その補給で成り立っている。
 そして「指導を学ぶ」者として、忘れてはならない言葉がこう記されていた。

 指導とは、自分をこえるものをつくりだすことなのである。