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悩むこともまた道徳

2014年05月09日 | 雑記帳
 異動期の整理の続きを連休中に行ったら、全然ページも開いていない教育雑誌があった。

 どうやら職場に送られてきた見本誌のようだ。
 一度や二度は購読したことがあるが、自分にはちょっと合わないなという気がしている。

 ただ真新しいまま処分もできないかなとページをめくってみる。

 まず、目次をみる。
 特集1は「全国学力調査」の結果公表のこと。特集2はこれからの「道徳教育」のこと。
 どちらも大事とはわかっているが、疲れた頭にはキツイかなあ、とその周辺を見回す。

 時事的なコーナーで「教育の断面」として「道徳の教科化の前に思うこと」と題して、さる新聞社の編集委員が書いていた。

 「道徳の『芽』はいつ出るか分からないもの」「生きる道を教えてくれた2人の先生」と書き継いで、「先生たちの創意と工夫を生かす道徳教育を」と論じている。

 筆者の考えは次の一言に集約されるだろう。

 道徳は(教科学習もそうだろう)先生の個性、半生の経験、そして人間的魅力や筋の通った姿勢のようなものに負うところが、とても大きい。


 このことばに対して、真っ向から反論する人は、そういないと思われる。
 子どもたちに直接語りかける教師の人間性というものが、道徳という学習を深めることは間違いないだろう。

 ただ、そこに寄りかかると、異なった二つの面から次のような考えが浮かんでくる。

 だから…教科化というような枠を強めるべきではない
 だから…どのように変えても指導することはできる

 そうすると、要は、某編集委員の考えがいかなるシステムの上でうまく機能するか、ということになるはずだ。
 ジャーナリストなら、それを論じるべきではないかと思う。

 道徳、そして道徳教育の必要性を疑う者はいまい。

 ただ「道徳教育に対するアレルギーともいうべき不信感や先入観が存在しており」という懇談会の報告を目にしたことがある。

 教科化によって、その存在している先入観、不信感は払拭できるのか。

 または、払拭しなくていいものなのか。

 見切り発車は一つの手だが、先行きがちょっと怖い気もする。