すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

だからといって花見止めません

2014年05月15日 | 読書
 「2014読了」53冊目 ★

 『桜は本当に美しいのか』(水原紫苑  平凡社新書)


 今年は学校や公園などの桜も見事だったが、山に自生する桜もよく目立ったように思う。
 数回出かけた山間部への行き帰りにそう感じた。

 桜並木そして一本桜、どちらも人間が意図的にその場所に置いたわけだし、姿を愛でてはてはいても、歴史的に続いてきたそういう配置、集約行為に多くの人は関心を払わない。
 またそうであっても、山桜とそれらを見る目には、実際にはどこか違いがあるのかもしれない。


 著者が抱いた問い。

 「桜を美しいと感じるのは自然な情緒なのか、そのように刷り込まれただけではないのか」
 
 なるほどと思える疑問ではある。

 歌人としての知識、キャリアをもとに、万葉集、古今集、新古今、西行や定家などの桜のうたを取り上げ、そして現在の「さくらソング」に至るまで見通して、「桜論」が述べられている。
 正直、古典オンチの自分には、キツイ読み物で理解できない部分も多かった。

 結局、著者が結論づけたことは、「国家による桜文化の創造から変容」である。

 それは、古代の和歌の世界から端を発していることをひとまず横に置いたとしても、「武士」や「戦争」と絡んだ美化があったことは容易に想像しやすいし、ためらいながらも肯ける結論だった。

 浅い知識で語るが、紀友則のあの名歌「久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」も、考えてみるとその「花」つまり桜はいつからどこにあったのかと問いを立ててみると、作られたイメージという結論に、ぐんと接近してしまいそうだ。


 いろいろな出来事や思いを、桜とともに思い出すことはありがちなことである。
 その意味では、「小道具」と言っていいのか。
 「大道具」の場合もあるのか。

 著者は「装置」という言葉を使った。
 つまり、そこにあることによって心情や思想が形作られる、というやや恐ろしい言葉でもある。

 知らず知らずに、桜を取り巻く様々な事象に振り回されている人間(自分)には視点の大転換を促す、強烈な副題がこの新書にはついていた。

 欲望が生んだ文化装置


 人は、どんな欲望をもって、桜をそこに置いたか。
 遠い昔のそのことは想像できなくても、今、桜を愛でる人たちがどんな欲望を持つのかを、一枚一枚突き詰めていけば見えるのではないか。

 著者の言葉を借りれば「共同体幻想」か。

 例えば「桜の樹の下で待っている」という一言に、どんな気持ちを見出すか。
 絞り出してみれば、きっといくつか携えている幻想にたどりつく気がする。

 だからと言って、花見はやめません。