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豊かさとは負けしろのこと

2014年05月29日 | 雑記帳
 内田樹教授のブログを見ていたら、見かけない言葉があった。「負けしろ」である。検索をしてみたら、内田教授は以前から使っていたようである。結構読んできたと思うが、目にしていない文章の中だったかもしれないし、問題意識がそこになかったから見過ごしたのかもしれない。とにかく、今の自分には結構響く言葉ではあるなあ。こんなふうに語られる。


 引用→http://blog.tatsuru.com/2014/05/27_1034.php

 日本は他の国とくらべると「負けしろ」の厚さがだいぶ違いますから。地震が来ようが、国債が暴落しようが、年金制度が崩壊しようが、そのときはそのとき、国が破れても山河が残っている限りは大丈夫です。なんとかなります。「負けしろ」が日本にはあります。


 内田教授はそのなかみとして、第一に「豊かな自然」を挙げ、次に「銃犯罪の少なさ」つまりは日常の保安性を挙げる。そして、温泉やら伝統芸能などの「文化的蓄積」についても触れている。なるほどと思う。東日本大震災の復興についての評価を簡単に括ることはできないが、復興を支える「しろ」の部分に上記事項が入っていることは間違いないだろう。


 しかし、その「負けしろ」が徐々に取り崩されていることは、もはやかなり自明である。自分たちの代ではまあまあ残っているのかもしれない、という安易さを持っている限り、その進行は止められない。ここで思い浮かぶのはネット上でも話題になった「大飯原発再稼働差し止め」判決文の一節である。ぴったりと重なると思えるのは、私だけではないはずだ。


 引用→http://www.news-pj.net/diary/1001

 このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。


 「豊かさの意味」を問うことは、何度も言い尽くされているけれど、もうこうなったら(どうなったら?)豊かさとは負けしろのことだ、と言い切ってもいいかもしれない。