すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

子どもへの思いを起点とする

2014年08月06日 | 雑記帳
 8月の2週目は公私おりまぜた研修ウィークである。


 4日月曜日、山形県の佐藤幸司先生を招いて教育講演会を実施した。
 当然のことながら、道徳を取り上げた研修である。

 「教科化に応えるとっておきの道徳授業」ということで、およそ1時間半じっくりとお話を聴くことができた。
 著書に表れている人柄そのままに、佐藤先生の道徳に対する情熱を感じさせる講演だったと思う。
 特に印象に残ったことを書きとめておきたい。


 冒頭に「自分の感性を大切にする」ということを主眼に(これは著書でも強調されていた)語られた中に、次のようなことがあった。

 導入の5分で内容がわかってしまうような道徳でいいのだろうか


 長い間、副読本を中心とした読み物資料の道徳だけが幅をきかせてきた。
 歴史的経緯はともかく、そこに対する問題意識は道徳の抱える大きな課題の一つであったことは間違いないだろう。
 「教師の喜びそうなことを発言する児童」に支えられて展開していく授業の空虚さ、そして無意味さ…方法として硬直化していた道徳に対して、疑問や反感を持っていた教師は、そこを理由に背を向けていた面も大きい。

 「児童の姿」とは結局のところ、どんな授業をし、どんな学級経営をしているかという日常の教師の指導を色濃く反映している。
 教師の気にいるような発言を鈍感に喜び、パターン化した授業そのものに疑いを抱かないこと自体が道徳教育の欠陥であった。

 佐藤先生がさりげなくおっしゃった「ふだんから子どもたちのことを思っている」ことを起点にして素材探しをしているというのは、きっと教育活動全体に幅広く目配せができていることにほかならない。
 それを支えているのは方法論以上に、何のために、何を目指しているかが明確であることだ。

 同じことは、授業づくりの終末にも言える。

 今回のお話の中にも、歌を聴かせてそのまま終わるという一つの形が提案された。
 よくあるように、その後何人かに感想を発表させてふりかえさせるのが一般的だが、佐藤先生はこう言われた。

 子どもたちの余韻を大事にしたい


 感想などでふり返ることは一つの定石と云えるし、もちろん効果的な場合もあるだろう。
 しかし、何のためにと一歩踏み込んで考えたとき、教師の漫然とした思いとか、パターン化した思考によって実施されているときもあるのではなかろうか。
 
 教師が意図して音楽、説話などを聴かせたあと、子どもの表情を読み取り、ここで閉じるという形は十分に考えられるし、むしろそういう展開は望ましいのではないか。

 授業としての辻褄合わせのようなことにとらわれない…警句として肝に銘じたい。


 唯一、時間の関係で後半の「解説型模擬授業」が、ほぼ解説のみになってしまったことが残念だった。
 しかし、弁舌のさわやかさやギターの弾き語りを交えたパフォーマンスなど、聴衆を惹きつける要素が盛り込まれ,著書を読んだ時に感じた三つのキーワード「手厚さ」「細やかさ」「温かさ」が十分に感じられた講演だった。