すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「識らず」に込められた警告

2014年08月24日 | 読書
 「2014読了」86冊目 ★★

 『揺れる大地に立って』(曽野綾子 扶桑社)


 「東日本大震災の個人的記録」と副題が添えられているこの本を手にとってみたとき,この著者ならこんなことを書くという予想めいたことは浮かんだ。

 そういう心理で読み進めることの意味とは,予想を確かめながら浮かんだ認識を強化したいという表れなのだろうか。
 とすれば,もともと自分の中にある(それまでの経験や読書などで培われた)ことしか読み取れないのだろうか。

 いや,読書するということはきっとそれ以外の何かしらを求めている。それがどんなに小さくとも価値の粒として,自分の中に溜められていく…漠然とした想念ではあるが大切にしたい。


 さて本の内容は,結果的に予想を大方外れなかったと思う。

 もちろん多くの被災者に対して心を寄せながら,いわゆる硬派としての発言は揺るぎはしない。
 曰く

 運命は途方もなく人を裏切る

 「安心して暮らせる生活」などない

 人間は常にどこかで最悪のことが起こるかもしれないという覚悟を常にしておくべきだ。



 今や「安全・安心」は唯一無二のキーワードのように私たちの前にある。
 しかし,誰しもが「絶対」がないことは知っている。
 「だからどうする」という問いの前に分かれ道があるのだが,判断を下すのは結局のところ,経験でもなく,データでもなく,結局は覚悟なのだと思う。

 もちろん,仕事上の諸々のことは,目的そして現実をしっかり把握したうえでの覚悟である。
 先日の会議で少し話題になった安全上の件でも,いったいそれは何のためにあり,どんな状況が付随してくるのか,多面的に見渡さないと,どうしても形式に走っていく傾向がある。

 著者はいみじくもこう記す。

 国民全体が知らず識らずに感染している「安心病」


 「識らず」に込められているのは,判断力の欠如への警告であろう。

 この著で新たに拾った価値の粒は,著者の覚悟が実に具体的であったこと(災害に対する個人的な備え)と,最終章「十人の美女の寝顔」という見出しに込められた思いである。

 多くの死者の顔と対面した被災者が語った,苦悩からの脱出を図る一つの暗示のような表現。
 そこには,人生を生き抜く逞しさへの深い共感が裏打ちされている。