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桜と絵本と豆乳と

私の作文教育の現在

2014年08月20日 | 読書
 「2014読了」83冊目 ★★★★

 『私の作文教育』(宇佐美寛 さくら社)

 ゆっくり読むシリーズ5回目。一応,ここでピリオドを打つ。
 結局私ごときに本質を読みきれるものではない。
 というか,改めて自分に根気がないことがわかった。
 それだけでも収穫か。

 第6章に,そんな性向をあざ笑うかのような表現がある。

 P128
 問題は(前記の千葉大学の場合のように,)「問題だ」と思うから「問題」として生じるのである。問題が有るとは思わず,のんびり過ごしていれば,問題は無いことになる。問題とは観念的なものである。



 「問題だ」と思ったから,拙いなりに「作文」を綴ってきた。
 しかし肝心なのは,その持続なのある。「気づき」を掘り下げて進むことが「作文」である。
 次の文章に示されている。

 P179
 作文とは,「考えたことを書く」ことだと思っているのではないだろうか。それは迷信である。正しくは,「書くことによって考える」のである。



 堪え性のない者は,途中で問題をつかみ損ねて,このように無様にリタイアしてしまう。

 それはさておき,つまり,「書き方」は「考え方」であると言ってよい。
 この場合の「書き方」とは多くの段階に当てはまることである。
 「場」「頻度」「文体」「構成」…そして筆記具や用紙まで及ぶのかもしれない。

 パソコン使用も含めた自分の「書く」行動を振り返り,頻繁に出てくる文章表現の悪い癖を反省しながら,そこに表出される考えだけはしっかり頭に留めておきたい。
 それぐらいが自分に出来ることだろう。



 もう一点,著者だけでなく,引用された池田久美子氏もずばり斬った「予想」という語の誤用について書いておきたい。

 教室では,過去の話を予想させることがはびこっていると指摘がある。
 歴史の授業しかり,ある出来事のやりとりしかり,そう言われれば頷ける。
 (ただし理科の実験や観察の場合の予想は,正当と言えるだろう)

 著者はこう書く。

 「予」とは「あらかじめ」なのである。過去のことを予め考えることはできない。


 「想像」とか「想定」ならばいいという。
 それがなぜ「予想」だったかと言えば,きっとこれは「過去の出来事」を対象とするのではなく,まだその場に提示していない「教師の答」に対するものではなかろうか。

 授業の形にも歴史があり,教師が知識伝達者,価値伝達者として役目を果たしていた時代の名残りなのではないか。
 「予想」という「教室方言」「教室語」が生まれてくる背景は確かにあり,一定の成果はあったことは認めよう。

 そして今,それを乗り越えたところに,教育の一つの変化が生まれている気がする。

 そんなことを「作文」してみた。