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幸せを邪魔する「希望」

2015年09月09日 | 雑記帳
 また、予防医学研究者・石川善樹の言を取り上げる。
 例の糸井重里との対談の一回目が「疲れる感情・疲れない感情」というタイトルになっていて、こんなことが語られている。

 実は感情って「疲れる感情」と「疲れない感情」というものがあるんですよ。たとえば「幸せ」なときとかって、人は疲れないんです。
 ロジック機能がオフになるから、脳は疲れないんですね。


 そして、この次に登場するのが「希望」という言葉だ。


 「希望」という感情は、疲れるんです。「希望」は「幸せ」と同じタイプに見えるポジティブな感情ですけど、「希望」のときは「幸せ」と違って、目的意識があって、すごくロジカルに考え始めますから。


 つまり「希望」のなかみの問題だとは思う。

 しかし、ロジカルに考えなくてもいい「希望」があるか、と問われれば、やっぱり無理か、と思い直す。

 辞書をもとに「希望」を言い換えれば、「ある事の成就を願い望む」また「将来のよいことの期待」である。それは基本的にロジカルに考えていくことだ。

 それなくして「教育」もまたあり得ないのかもしれない。
 教育の核をなすのは、言うまでもなく「学力をつけること」。

 そしてある先達は「学力とは、幸せをつくる力」と言う。共感を覚える言葉だ。

 しかしある意味で、教育そのものに目的意識が強まると、幸せ感は弱まるという逆説めいた論理が成り立つ。

 「疲れない感情」だけで、学習や生活をしていけるとは思わないが、疲れる感情に溺れていくようでは困る。


 たぶん、希望の本質や考え方を見誤らない運用が必要なのだ。

 「目標を、達成しやすくするヒント」とは、結局プロセスをいかに楽しめるかである。

 「希望」が、それを邪魔するようでは「幸せ」になれない。