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多様性から見せつけられる

2015年09月19日 | 雑記帳
 『ソトコト』の「みんなの多様性」という特集は、ずいぶんと考えさせられる。そもそも「LGBT(性的少数者)」という言葉も初めて知った。多様性と言いながら同性愛者や性同一障害者を合わせて括らなければならないという事実は、いかに理解が進まないかを表している気がする。ある意味わかりやすさとは対極だ。


 障害者を取材対象としている『コトノネ』という雑誌があるそうだ。その代表が語る言葉には発想の転換がある。「僕はずっと支援やと思っていた。困っている弱者への支援やないかって。でも向かうべきはそっちやなくて、障害者が困っているという状況をつくった社会のほうを変えていくべきやないかって…


 これは、ユニバーサルデザインに通ずる考えだろう。表現は適切ではないかもしれないが、理想は、障害者も健常者も互いにメリットを受けられるような設定である。そうした時、明らかに効率ということが頭をよぎるが、結局それは経済的な視点と重なる。価値観が問われている。たぶん「授業づくり」もそうだ。



 「アール・ブリュット」も初めて知った言葉だ。「美術教育を受けていない人がつくる“生の芸術”」という意味。それに心から感動できる、そこまでいかなくとも浸れる感性が出発点になるのか。専門の美術館を仕掛けた人は「多様性という言葉を使うほど多様性を認めていなかったりするし…」と本質を突いてくる。


 「サイレント・カフェ」…耳の聴こえない人たちが、演奏の場があるカフェを営んでいる。そこで曲を聴くとすれば、いったい自分は何を感ずることができるか。音楽として示された全体のいくらを受け取っているのか、という問いに通ずる。障害を持つ人たちから見せつけられるのは、おそらく貧弱な自分の感性だ。