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「品」の勝手な解釈

2015年09月23日 | 雑記帳
 昨日、坪田先生の読書メモにこんなことを書いた。「一読して感じるのは、品の良さであり、これは書く技能とまた違うということを感じた。仕事や生活に向き合う姿勢なのだ。」その夜、寝床でふと「品のよさ」って何だろうと考えを巡らせてみた。自分には間違いなく品がないと思うし、そこをたどればわかるのか。


 品とは外見だけではないが、やはり行動も含めて可視化されている部分で判断するしかない。自らを振り返り思い浮かぶのは、ぱっと目の前のものに飛びついてしまうことか。好奇心旺盛といえば聞こえはいい。しかし軽薄、単純のこと。品があるとはきちんと見定める印象があるし、そこに余裕という雰囲気が漂う。


 控え目、謙虚といった点も挙がるだろう。「おれが、おれが」の人に品の良さは感じないのが普通だ。従って、服装でも派手なものを着て品があると言われることは少ない。煌びやかであったとすればワンポイントとか、どこかに拘りを持っている場合であるはずだ。それはある意味で計算的な要素があるかもしれない。


 坪田先生の著書の中に一つ見慣れない言葉があった。「選択的注意」…小さな疑問も頭の中にとどめておき、興味を持ち続ければもっと深く知る機会にめぐり合える、というような意味である。それは個人の資質の範疇と思えるが、品の良さと根底で通ずる部分を感ずる。大事に何かの種を育てているイメージを持つ。


 そんなふうに考えると、品のよさとは、表面的な上品さとは少し違って、物事を自分に引き寄せる何かを抱えていることかなあ、と結論づけてしまいたい。「品」という漢字は物を表す口を三つ並べた会意文字。口は性質も表す。一番上に位置する口に、どんな個性を置くかで品が決まる、と勝手な解釈をしてみた。