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こんなことを喋ってきた・壱

2015年09月11日 | 雑記帳
 地域にある国語教育の研究会にずっと所属してきた。
 いろいろな会の時に挨拶する立場になって十数年、データとして残っている原稿を眺めてみた。
 当時の自分が言いたかったことはおそらくここだなと、今の自分が感じた箇所を再録しておこう。
 と言っても、あまり変わらないか(進歩していないか)。

 今回は授業研究会編。いつかまた別編の予定。


2003年
 「授業をこなす」ことと「授業をつくる」ことには、やはり大きな差があるはずです。両方とも主語は教師ですが、子どもにも教師自身にとってもどちらに価値があるかは言うまでもないことです。本来、私たちの仕事の核、そして楽しみ、醍醐味といったものは、そこにあるということをもう一度確認したいものだなあと思います。授業研究会は、そうした確認の場でもあるなあとこのごろ思います。

(2005年は、広域異動で郡市内にいなかった)

2007年
 (会場だった学校が、TVのドキュメンタリーに取り上げられ、その感想「自問自答の大切さ」を中心に述べたあとに)ともすれば、私たちの学校現場は今息苦しさを感ずることがあるわけで、自問自答もままならない場合も多いのですが、今日の協議会が明日からの教室に、少しでも新しい空気を送り込めればいいなあと思います。

2009年
 自分の好きなこと、得意なことをどんどん出してやったらいいと考えているわけです。それがなんといっても楽しむための大きな力になると思うのです。そんなふうに互いに交流して、楽しみ方のアイデアを増やしたり、広げたりすることは大事でしょう。
 ただ私たちは、なんといっても公的な仕事についているわけですから、その楽しみ方が、妥当なものなのか、何か逸脱していないかと時々互いに見あったり、気づけあったりすることは欠かせないはずです。こうした研究会も見方を少し変えれば、楽しみ方の交流とチェックといってもいいでしょう。

2011年
 (指導案の教材名にあった「読む」に関連づけて)類語大辞典によると、「読む」はどういう動詞の区分に入るか、ということです。四つの区分のところに「読む」が位置づけられていました。
 一つは文字通り「読む」。次にやはり「数える」という大区分に入っていました。そして「推す」。「推し量る」という場合の「推す」ということですね。最後に「見通す」という区分の中にもありました。
 今回の題名の読むに近いのは、「推す」と「見通す」でしょうか。
 そのことと今日の子どもたちの様子を照らし合わせると、発言の中に推し量っている部分や、見通している部分があったなあと振り返ることができそうです。さて、今日の授業を構築するポイントは何だったか、どうやってこの六年生の力をつけてきたのか…

2013年
 教科研の授業研究会は、その教科に集う会員が「授業」ということをミクロの視点まで掘り下げられるいい場ですし、マクロ的な情報と照らし合わせながら、いい話し合いができればと思います。
 実は、前回、十数年前もこの場で責任者として挨拶していたのですが、その時に「参加者それぞれが、白銀を持ち帰ることができるように」といったような言葉を言ったことがあります。それは歴史ある院内銀山の地、つまり当時久保田(今の秋田市)を凌ぐほどのにぎやかさを見せた、この地に明治7年にできた白銀小学校にひっかけたものでした。
 金も銀も、最初からそこにあるものでなく、自分で堀り進まなければなりません。ぜひ積極的に話し合いながら、自ら白銀を掘り当てる時間にしていただければと思います。


 そして、今年2015年
 訳あって(笑)結局言えずじまいだったが、こんなことを喋る予定だった。

 さて、隔年の開催となっている教科ごとの授業研究会は、他の公開研究会とは、また違う位置づけがあるかと思います。それは、教科指導研究、私たちの場合は国語科指導研究を視点に、つまり国語科の特性や指導の歴史といったものを生かして、参観、協議できるといったことでしょう。
 今、私たちの県で進めていることは、全国的には評価が高いわけですけれども、反面、どの教科指導も似通ってきている、もしかしたら画一化という方向に進んでいるのでは…といった危惧が、ふっと浮かんだりします。かつて国語科指導においては、様々な団体が、様々な手法を主張し、色とりどりの実践が生まれていたように思います。他教科にもそれはあるわけですが、国語科は一層華やかでした。
 もちろん、私たちの職務の核となる、学力向上に照らし合わせて、そうした先行実践の取捨選択がなされてきたのですが、世界が多様化しているのに、さらに教育界が個性化を叫んできたのに、どうも実際の教育は、授業は、逆方向に向いているのではないか…そんな気がしてなりません。