2018読了22
『乱読のセレンディピティ』(外山滋比古 扶桑社)
年間読書数を百冊と意識した年をはっきり覚えている。1999年だ。それはある会誌に「99年、99冊を読む」と題して寄稿したことがあるからだ。「数冊上回って読破」と書いたので百超えはしたはずだ。それから20年目。達成できなかった年が04年、それから一昨年は記録せずにいた。でもおそらく2000冊は超えた。
最初は教育書が半数以上だった。次第にビジネス書や新書、文庫で小説等が増えていった。「乱読」と呼ぶのはおこがましいかもしれないが、よく続いたものだ。だからと言って知識が多く身についたという自覚はない。ただ、時々ふっと何かがつながる瞬間がある。それは一定量を読んだ経験が基にあるかもしれない。
正直、読み方が雑だなと感じる時も少なくない。内容があまり入ってこない時流し読みになったりしてもいる。しかしこの本は、そんな自分を認め、励ましてくれた。精読や熟読吟味、また「読書百遍」を否定しているわけではないが、「本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代」ではないという認識は重要だ。
そのうえで「知の巨匠」ともいうべき著者は、こんな文章を記す。「スピードをあげないと、本当の読みにはならない。(略)風のごとく、さわやかに読んでこそ、本はおもしろい意味をうち明ける」もちろん、単なる速読奨励ではない。「いろんなジャンルの本を、興味にまかせて読んでいく」という姿勢の強調であろう。
それは「専門主義」「瑣末主義」に対する批判でもある。英文学を専門としながらも様々な分野を学び、思考を拡げ深めてきた著者の実践的信念とも言える。誕生日前に再び書籍整理、処分をし「減らす」をテーマにはしたが、乱読はこれでいい。セレンディピティは、少し混沌、雑然とした環境から生まれると信じて。