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「男の不在」に話膨らむ

2018年03月24日 | 読書


2018読了31
 『かわいい自分には旅をさせよ』(浅田次郎 文春文庫


 浅田次郎のエッセイ集を続けて読む。ずいぶんと範囲が広い媒体への寄稿が集められている。なかに一つだけ短編の時代小説「かっぱぎ権左」が収録されている。それは明治初期、禄を失った武士たちの生き様が描かれる設定。作品の締めの上手さに思わずうなってしまう。この一節など本当に素敵で格好がよい。

 「権左は、武士が背筋を伸ばしているのは徒に威を誇るためではないのだ、と言った父の訓えを思い出した。背に立てた旗棹を明らかにするために、武士はそうするのだ。吉兵衛と名を変えた三河侍は、目に見えぬおのが旗印を戦場の風に翻して、今も敵に向き合うている。」


 前作にもあるが、西郷南洲の詩「偶成」が繰り返し引用されている。著者の精神的支柱の一つと言えるようだ。「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し/丈夫は玉砕するも甎全(せんぜん)を恥ず/一家の遺事 人知るや否や/児孫の為に美田を買わず」。最終行がつまりはこの書名の肝であるし、価値観を形づくっている。


 その価値観は、某週刊誌に連載した「男の不在」という章にわかりやすく述べられている。「男の不在」「父の不在」「親の不在」「リーダーの不在」と並べられた文章には、家庭生活からこの国のあり方まで、時代の流れととも変質した日本人の姿が典型的に描かれる。例えばこの「教育論」には凛とした思いがある。

 「子供の健全な教育というものは、父親がどれくらい子供らとともに時を過ごしたか、という一点にかかっていると私は思う。(略)無言でよい。手の届く場所にいつも寄り添っていることこそ、父のなすべき教育であろう。」


 ここに必要なのは「父の権威」。それが今の時勢に合わないのは承知している。それを吹聴すること自体、窘められる世の中でもある。しかし「父性」という要素を抜きに、優しさだけが肥大する日常が続けば、逆に世界が悪意に染まることに手を貸すことになるのでは、といった懸念だけが募る。また話が膨らんだ(反省)。