すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

自分をいじめ、開き直る

2018年03月16日 | 読書


 久しぶりに出向いた町の図書館、地元出版物の書架で、たくさんの詩集を出版しているT先生の著作の中に、川柳集を見つけた。沁みる一冊だった。先週あった会議後の雑談で、隣席から「川柳は始めたときは良かったけど、だんだん難しく感じて…」という声。経過としてはありがちだが、どんな点か気になった。


 二つのことが重なり、頭の中がいつしか川柳モードに。自分で意識して創ったことはほとんどないが、時実新子という作者について興味を持ったことがある。整理した後の書棚に残っていた川柳の本はわずか。その中からちょっと新たな気分で再読してみようとこの本を手に取る。改めてこの文芸の持つ魅力を知った。

2018読了26
 『時実新子 川柳の学校』(杉山昌善・渡辺美輪  実業之日本社)


 某生命会社の『サラリーマン川柳』はいつも楽しい。しかし、時事的で流行語などを入れ込み、ワハハ感を持たせることは、本道ではないだろうと思っていた。世の中を皮肉ったり、権力者を嘲笑ったりすることは出来るけれど、一番見つめたいのは「自分」ではないのかな。T先生の川柳は、まさしくそうだった。


 この本では、川柳を次のようにとらえている。「川柳は人の世のよろこびもかなしみも、深いところで捉える力が備わった『おとな』と出合うことを望んでいる文芸なのです。」以前は、俳句と比べて一段下のような印象を持っていたことは確かだった。それを覆したのは、時実新子との出合いの一句だ。衝撃をうけた。

 ほんとうに刺すからそこに立たないで(新子)

 これがフィクションであったとしても、こういう現実をくぐり抜けた人にしか吐き出せない言葉だろうと強く思わせられた。川柳は季語もなく、制約もすくないので、その気になれば書けそうだが、その辺りが落とし穴である。「心を吐くという川柳のテンション」と書いてある。テンションの維持は容易ではないことだ。


 どのような現実をどのように歩むか、それは人それぞれ。傍目から見ていただけでは、心の中は覗けない。唯一、自分自身だけしか知りえないとすれば、何が「川柳のテンション」に結びつくのか。この本から学び取ったキーワードは一つは「劣等感」。もう一つは「自己の他人視」。自分をいじめて、開き直ることなのか。