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ヒトは、目に遭ってきた

2019年01月11日 | 雑記帳
 「痛い目にあう」という慣用句が浮かんだのは、たまたま二つの痛かったことがあったから。一つは身体的な痛み。屋根の雪下ろしをしていて、同じような動きをしていた右腕にかなりの痛みがあった。もう一つは心の痛みというか、愛孫が動きたい盛りになり、大事に使っていた花瓶を見事にガチャンとしてくれた。


 加齢は避けられないうえ不摂生な生活をしているし、覚悟のうえで肉体労働したツケであることはわかっている。また、孫の悪さは責められないし、予防しなかった大人に非があることも承知だ。それでも、痛い、痛い。こういう時に気を紛らわすためにコトバ妄想するのがよいと思いついたのが、「痛い目」である。


 今までなぜ「目」を使うのか考えたことがなかった。似た使い方をしている「ひどい目」「散々な目」などが思いつく。広辞苑によると「物事に出会った体験」という意味がある。日本国語大辞典では「目に見る姿、様子の意から転じて、その者が出会う、自身の有様、境地、境遇。めぐりあわせ。体験」とかなり詳しい。


 「目」の意味の幅広さは予想できるが、辞書を引くと改めてその範囲に驚いてしまう。「め」を使う慣用句の「子見出し項目」は、なんと160にも上る。体験に直接結びつく句は少ないが、「めに遭う」の意味は「ひどい目にあう。難儀する」と書いている。確かにそういう使い方をする。「目」それ自体が悲観的である。


 広辞苑でも「目に会う」という見出しで「ある体験に遭遇する」とあり、注記として「多く、好ましくない場合に用いる」と載っている。ちなみに「目に物見せる」は「ひどい目に合わせる。思い知らせる」ことである。勝手な推測をすれば、ヒトの目が見てきた歴史が酷く痛いことの連続だったから、そうなったか。