すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

それは、動的な結果に宿る

2019年01月02日 | 読書
 我が家恒例「今年の一字」を元日の寝床のなかで考えた。

 思い浮かんできたのは「」という字。
 年末に読んだ雑誌に、料理家の土井善晴が書いていたことが心に残った。

Volume.136
 「和食においては最上の価値観が『澄む』ことです。私たちは、うまく事が終われば、『すみました(澄んだ)』と喜んで、うまくいかなければ『すみません(澄みません)』と詫びるのです。澄むこと濁ることの同義語の『きれい・きたない』の区別が日本人の倫理観になるのです。」


 解決や終了を表す「済む」というレベルではなく、もう一段深いところから「澄む」と言えるような生活とか仕事とかしたいものだなと考えた。

 いや、それ以上に最近(というわけではないが)心の汚れが気になることもあり、もうちょっと浄化しなければという思いが強いからか。

 しかし、浄化は無理か…せめて沈殿させるか…と、もはや気弱な自分もいる。

 ともあれ、書いて宣言すること。



 ところで、どうして「さんずい」に「る」なのと、いつものように疑問が湧く。

 漢和辞典によると、意味は「水のよごれが下に沈み、清らかな部分が静かに上にたまる、よごれがとれてすみわたるさま」とあり、「水」の様子からさんずいであることはわかった。

 ではなぜ「登」かというと、これは「豆(たかつき)を手で高くあげたり、足で上にあがったりする」という意味であり、つまり、水を動かすことによって澄ませていくと想像できる。


 そうか、「」は、静的なイメージであるが、動的な結果に宿ると考えるべきか。

 黙っていては、濁ってゆくばかりだ。