我が家恒例「今年の一字」を元日の寝床のなかで考えた。
思い浮かんできたのは「澄」という字。
年末に読んだ雑誌に、料理家の土井善晴が書いていたことが心に残った。
Volume.136
「和食においては最上の価値観が『澄む』ことです。私たちは、うまく事が終われば、『すみました(澄んだ)』と喜んで、うまくいかなければ『すみません(澄みません)』と詫びるのです。澄むこと濁ることの同義語の『きれい・きたない』の区別が日本人の倫理観になるのです。」
解決や終了を表す「済む」というレベルではなく、もう一段深いところから「澄む」と言えるような生活とか仕事とかしたいものだなと考えた。
いや、それ以上に最近(というわけではないが)心の汚れが気になることもあり、もうちょっと浄化しなければという思いが強いからか。
しかし、浄化は無理か…せめて沈殿させるか…と、もはや気弱な自分もいる。
ともあれ、書いて宣言すること。
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ところで、どうして「さんずい」に「登る」なのと、いつものように疑問が湧く。
漢和辞典によると、意味は「水のよごれが下に沈み、清らかな部分が静かに上にたまる、よごれがとれてすみわたるさま」とあり、「水」の様子からさんずいであることはわかった。
ではなぜ「登」かというと、これは「豆(たかつき)を手で高くあげたり、足で上にあがったりする」という意味であり、つまり、水を動かすことによって澄ませていくと想像できる。
そうか、「澄」は、静的なイメージであるが、動的な結果に宿ると考えるべきか。
黙っていては、濁ってゆくばかりだ。
思い浮かんできたのは「澄」という字。
年末に読んだ雑誌に、料理家の土井善晴が書いていたことが心に残った。
Volume.136
「和食においては最上の価値観が『澄む』ことです。私たちは、うまく事が終われば、『すみました(澄んだ)』と喜んで、うまくいかなければ『すみません(澄みません)』と詫びるのです。澄むこと濁ることの同義語の『きれい・きたない』の区別が日本人の倫理観になるのです。」
解決や終了を表す「済む」というレベルではなく、もう一段深いところから「澄む」と言えるような生活とか仕事とかしたいものだなと考えた。
いや、それ以上に最近(というわけではないが)心の汚れが気になることもあり、もうちょっと浄化しなければという思いが強いからか。
しかし、浄化は無理か…せめて沈殿させるか…と、もはや気弱な自分もいる。
ともあれ、書いて宣言すること。
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ところで、どうして「さんずい」に「登る」なのと、いつものように疑問が湧く。
漢和辞典によると、意味は「水のよごれが下に沈み、清らかな部分が静かに上にたまる、よごれがとれてすみわたるさま」とあり、「水」の様子からさんずいであることはわかった。
ではなぜ「登」かというと、これは「豆(たかつき)を手で高くあげたり、足で上にあがったりする」という意味であり、つまり、水を動かすことによって澄ませていくと想像できる。
そうか、「澄」は、静的なイメージであるが、動的な結果に宿ると考えるべきか。
黙っていては、濁ってゆくばかりだ。