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『人生が二度あれば』と想う頃

2019年01月05日 | 雑記帳
 3日の新聞一面で今日のアウトラインを見ていたら「井上陽水、デビュー50周年」とあった。特集で組まれるあたり、サザンやユーミンと並ぶ大物感があるなあ。ああ70歳、古希なんだと思う。紅白歌合戦に出ていないところもまたいい。昔、オファーを断ったときの理由が「恥ずかしいから」。これもまた陽水らしい。


 実はこのブログには陽水絡みのことを何度か書いていて、BSなどで特集をしたときの感想が記されていた。恥ずかしさというのは「含羞。何を隠すか」と題付けたことと短絡的ながらつながるかもしれない。様々なバラエティに富んだ楽曲があるが「日本人しかない含羞」と親しい人たちが評したことは、納得できる。


 自分がハマっていた高校時代、つまり初期の曲は特にそうだったように思う。少し恥ずかしい告白をすれば、人前でのギター弾き語りデビュー曲は、陽水の『人生が二度あれば』だった。友人に薦められて飛び入りで歌ったら、校内新聞(笑)で絶賛され、それから変な自信を持ってしまい、その後5年の学業に影響した。


 それにしても『人生が二度あれば』を思い出すと、典型的なステレオタイプと言っていい内容だ。ただ、歌詞中の「父は65」まであと2年以上あるとはいえ、そんなふうに歌われる対象の年齢に近くなった現在に、今さらながら驚く。そして本当に「人生が二度あれば」と想うかと言えば、…ない。若い発想だと気づく。


 子から父母を見る設定であり、そんな思いを親に抱いたことは確かにある。親孝行できていない者の裏返しの感情かもしれない。自分自身の時間を巻き戻せたらという発想はよくあるが、全ての出来事は目の前の選択の結果成り立つわけで、そのことを思い返すと、件の発想はあまりしなくなる。少し寂しい気がする。