すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

サボリ方の哲学

2010年05月17日 | 読書
 『いきいき教師の仕事術~仕事サボリの教職学~』(家本芳郎著 学事出版)

 ちょっと物騒な?副題がついているが、内容には納得できる。
 もう二十年近く前の書籍である。
 しかし十分に今でも通用する。いや逆に今だからこそ、という部分も大きい。

 家本先生は、多忙化する現状に対する教師の仕事について、自分なりのルールを三つ作ったと書いてある。

 第一に、ただ働きはしない。
 第二に、自分や自分の生活を損なうことはやらない。
 第三に、子ども(生徒)のためにならないことはやらない。
 
 この三つを別個に見ていくか、連続的に見ていくか…なかなか面白い。

 私たちの仕事の一つ一つに対して、チェック項目としてこの三つを当てはめてみる考え方がある。
 また、三つをつなげて考えてみることもできる。表現としては、ただ働きをすることは自分や自分の生活を損なうし、そのことは子ども(生徒)のためにならない、という考え方だ。

 自己の現状に照らし合わせるとすれば、いずれにしても仕事観や教育観をはっきりさせていなければ、戸惑ってしまうに違いない。その意味では厳しい書とも言える。

 ただ、実際場面での考え方の柔軟さや実用的な面においても、さすが「家本本」(自分で名づけてみた)である。
 齋藤孝本で有名になった「換骨奪胎」の思考。さらに「スケール」をキーワードとした行動の適用、そして日常の細々とした仕事術の数々…学ぶ価値が高い。

 目指すものは「いきいき教師」だろうし、そのための合法的なサボリ(表現としてどうなのかとは思いつつ)についてあれこれ考えることは必要なことだし、また楽しんでもみたい。

今さらだけれど、キッパリ!

2010年05月16日 | 読書
 数年前、ベストセラーになっていた『キッパリ!』(上大岡トメ著 幻冬舎)が、ブックオフで105円だったので買い求めた。

 流行っていた頃、書店で少し立ち読みをしたことがある。整理本好きの私でも、まあちょっと単純すぎるかなと思って購入しなかったが、105円だったら損はないだろう、そんな気持ちである。
 手にしたのは発刊三ヶ月足らずの13刷かあ、ずいぶんと売れたんだなあ。さすがに幻冬舎、作りが上手だ。この表紙絵の印象度も強いなあ、と感心しながら、風呂場で読了。

 特に目新しいことが書かれているわけではないが、四コマ漫画とイラスト、チェックリスト等、雑誌的な体裁で読みやすい。
 あんまりあっさりと読み進められるので、逆に何も残らない感じが、思わず立ち止まった箇所はここである。

 「52 すぐ友達を呼べる家にする」という項目で、漫画に描かれている主人公(著者でしょう)は電話で「友達においで、おいで」といってから、散らかっている家の中を見てどうするか、考える。

 「あきらめる」か「限定 3ヶ所だけ集中してかたづける」
 
 あっこれだと思った。
 上大岡さんの言いたいのは「限定から始める」ということだ。
 そう思って前を振り返ると、かなりの率でそんなことが書かれている。

 自分に変容を求めようとするとき、些細なこと、小さなこと、限定された対象に向かって、動き出す。そこに集中させる。そしてそれを拡げていく、ということだ。

 印象的な表紙絵のポーズも、脚に力を入れることから始まる。

 そういえば、あの酒井臣吾先生が以前書かれていた「草むしりの原則」にそっくりだなと思った。

ツイッターで軽く宣言

2010年05月15日 | 雑記帳
 あるページを見ていたら、「ツイッタ―で○○宣言!」と書いていた。
 何だか違和感があるなあと思って「ツイッタ―で宣言」と検索すると、結構ヒットするではないか。某ソフトバンクの社長の御名前もあるではないか。
 
 そういう時代なのですね。

 ツイッタ―とは「つぶやき」だと思っていたし、そもそもtwitterは「さえずり」でしょう。
 心の中にふと浮かんだこととか、単なる思いつきとか、妄想?とかボロッと出すみたいな感じと思っているので、「宣言」とは同じ言語行為でも全く逆ではないか。

 それを結びつけるなんて、恐るべしツイッタ―の侵食力!
 また、宣言という言葉自体が軽くなった、というより一方的な行為は役に立たなくなった時代の流れということもあるのだと思う。

 確かにツイッタ―で研究者同士が議論していることや、ツイッタ―文学賞?なるものまで現れていることは承知していた。
 だから何も今さら「ツイッタ―で宣言」という言葉に驚くほどのものはないのだが、それでも驚いてしまうところが、もはや旧い感覚なのだろうな。

 こうした文章もその通りであって、実はツイッタ―で「ツイッターで宣言って、何かおかしくないか」とツイート!してみれば、誰か応えてくれるのかもしれない。

 そういう問いのたて方や考えの取り込み方、広げ方、深め方、そして応答を楽しめる感覚がないのだな、と改めて思う。
 だいたい携帯メールをやらない人がそんなこと出来ますかって…そしてこの程度の雑文、小文で自己完結してしまう…

 ああ、この中途半端な立ち位置よ。

 でも、結構それが楽しかったりする時もあるものだから。

 私はツイッタ―はやりません、今のところは。と軽く宣言してみる。

やはり頻度なのだと思う

2010年05月14日 | 雑記帳
 校内研修で冒頭の15分ほどをもらって、大型テレビ活用のレクチャーをした。
 そんなに詳しいわけでもないがとにかく誰かが先鞭をつけないと、なんだかこのまま宝の持ち腐れ状態になるのではと思ったからだ。

 年度当初に50型の大型テレビが4台入ったわけだが、ゴタゴタした時期だったので十分な検討もせず設置場所を決めたことを反省している。10学級に4台だったので特別教室等へと単純に考えてしまったのだ。
 これではどうしても担任から遠のく。偏ったとしても普通教室にして活用を始めていくべきだったのだろう。まあ悔やんでも仕方なく、レクチャーを受けて開始できると感触を持った人から、随時自教室へ移動させようということになった。

 レクチャーした中味は、初め「簡単活用」ということでSDカード、デジカメ、書画カメラを扱い、「本格活用」ではPCとつなげて、ソフト活用、自作のプレゼンテーション利用と流してみた。

 デジカメをつないだ「プログラム化された写真の利用」は、そういえばずいぶん前からやっている。15年ぐらいにはなるだろう。しかし、その時のテレビと比べたら大きさ、解像度など全然比べものにならないし、映像効果も大きくなっていることは間違いない事実だ。

 今ならばもちろんネット活用が一番メインになってくるのだろうが、まだ接続環境が全てに行きわたっているわけでもないので、ちょっと苦しい。
 書画カメラが中心であれば、それだけでも十分だし、取り掛かりとなっていくだろう。

 ただ慣れる時間もとれないのが実情だろうし、ある程度使える者がどんどんやって、お気軽感覚を持ってもらうしかないのだろうと思う。
 そういう意味では、他への働きかけと同時に自分自身がノルマを決めて使っていく、見せていくという気持ちで臨みたい。
 気持ちがまだ「仕掛け」的なとらえ方なので、このあたりの切り換えは、やはり頻度なのだと思う。

「正しい視点」を見る視点

2010年05月12日 | 読書
 それは「正しい視点」と「共感できる意見」が入っているかいないかです。

 ある二つのことを比べた言い方である。

 「正しい視点」と「共感できる意見」を兼ね備えているものは何か。

 正論…これには正しい視点があるけれど、共感を得られないというニュアンスが感じられる。
 同意…これは共感できるだけ、または賛同するといったことで、正しいかどうかはわからない。
 どちらも違う。

 コンビニで売っていた『瞬間・交渉術』(徳田神也、他著 G.B)という本に載っていたのだが、上の引用文の前にあったのはこういう問いかけであった。

 毒舌と陰口、その差はいったい何なのでしょう。
 
 毒舌には「正しい視点」と「共感できる意見」が入っているというのである。いわゆる毒舌家と称される人を思い浮かべると、確かに納得できることもある。

 しかし問題は「正しい」という点だ。
 視点の正しさを証明することはきわめて難しいのではないか。だから、これはある一面で正しいとしか言えないだろう。

 国民総毒舌のような雰囲気がする今の「基地問題」。
 がしかし、実はマスコミが作り上げているだけなのではないか。

 連日のこうした情報によって、正しさが一方的に存在するような雑な社会にはしたくねえな、と毒舌っぽく言ってみる。

装飾的を前向きにとらえる

2010年05月11日 | 読書
 『イラストで見る楽しい「授業」入門』(家本芳郎著 高文研)を読んでいたら、「学力観にもいろいろある」と題されたイラストがあって、7つの「~~学力」が記されていた。

 基礎学力、受験学力などはお馴染み?であるが、幸福になる学力、自治の学力などは一般的とは言えないかもしれない。しかし意味はある程度つかめる。

 ところが、これは「んんんっ」と頭をひねった。

 装飾的学力

 単純に考えたときに一つ浮かぶのは、お飾り的な学力つまり学歴のようなもの。中味のない表面的な知識だけが身に付いたようなものかな…違うような気がする。

 ネット検索をしてもヒットしなかった。もちろん家本先生のページにも見当たらない。
 ただ装飾的思考という言葉があって、書籍もあるらしく次のページがあった。

 ここをざあっと見ていて、あれっと思った箇所。

 複雑性、細密性、緻密性、多様性、誇張性、色彩性、曲線性、活動性、大胆性、変転性といった装飾的造形
 
 装飾というのは結局テーマに飾りつけていくわけだから、テーマに付随する様々な力といったイメージも湧いてくる。
 またはある特定の学力を身につけていく中で、その周辺や隙間を埋めていく様々な要素も学力として定着していく、そんな解釈もできるかな…前向きでいいねえ。
 もしかしたら、もっと深い解釈なのかもしれないと思いつつ。

イトイさんも言いますねぇ

2010年05月10日 | 読書
 『イチローに糸井重里が聞く』(「キャッチボール製作委員会 朝日文庫」
 
 上手い作り方の本だと思う。

 特徴その1 
 欄外の注釈(というより、というより関連づけているイチローの発言など)が非常に多い。45項目。しかもそれ一つ一つに読み応えがある分量。

 特徴その2
 インタビュー紙面の後で、振り返りともいうべき「語録」を載せている。いかにも糸井的である(本の構成は違うかもしれないが)。数はもちろん51。

 そうは言いながら、やはり糸井の絶妙な問い、そして対応が今までのイチローへのインタビュー記事などと一線を画しているように思う。

 こんなやりとりが載ったのは初めて見たし、自分もかつてそんなふうにイチローを見たことがあると思い出した。

 糸 井  イチローさんは、人に訊ねたことってありますか?
 イチロー ないんですよ。
 糸 井  それは、まだ人間ができていないんでしょうか?
 イチロー うーん。まあ、そういうことでしょうかね…イトイさんも、言いますねぇ(笑)

 このインタビューは6年前のもので、それから個人記録更新やWBC連覇など大きい出来事があった。限られた報道の中でしか感じることはできないが、当時とまた微妙な変化もあるように思う。
 ただ一つ一つの喜怒哀楽がクローズアップされるヒーローだけに、頑なにならざるを得ない実情は変わっていないようだ。

 それにしても、イチローの裏声による感動表現?が見られるあの「一番絞り」のCMはあっという間に消えてしまったのは何故?。

物語的理解への道

2010年05月09日 | 雑記帳
 最近読んだ雑誌記事の中で興味を惹かれた言葉がある。

 科学的理解と物語的理解

 ビジネスシーンにおける経営の現実の理解ということで提示されているのだが、この考え方は授業研究の視点としても十分有効ではないかと感じた。
 筆者が両者の特徴として挙げている5つの項目を記してみる。

(1)事後の理解と事前の理解
(2)外部者の立場に立った理解と当事者の立場に立った理解
(3)直線的理解と曲線的理解
(4)必然の論理と偶有の論理(「他の道、あるいは他の現実がありえたかも……」)
(5)抽象化・標準化と想像力・共感性
 
 授業研究として主流なのは前者、つまり科学的理解ということになろう。それは当然であり、それなしに協議が成立したらそれもおかしいだろう。
 しかし、科学的理解だけでは授業の全体像をとらえられないという場面がないだろうか。
 「こうしたらああなった」「こうするためにそれを取り上げた」「こう言ったのでそう対応した」という事実をなぞり分析しただけでは、授業の深いところまでとらえることはできないのではないか、ということだ。

 おそらくは、科学的理解の細分化、多様化のはてに物語的理解があると予想するが、視点としては全く別方向であり、その必要性を意識できているだろうか、と自問してみる。

 授業研究会の参加者は科学的理解を求めてそこに臨むが、それが連続し自分に定着するにはおそらく物語的な理解へ転化させていくことが必要だろう。
 当事者として、事前の理解を大事にしながら、授業の成功も失敗も振り返りながら、微細な反応を思い起こしていく作業である。その連続である。おそらく曲線的な歩みだろう。

 そのための方法は出尽くしている感がある。
 いかに取り上げ、組みあわせるかだ。

ガラパゴス化を良しとしない

2010年05月07日 | 雑記帳
 一昨日書いた村上龍の言葉は、結局「閉じていることによって開花する」という意味だなと考えていて、それは江戸時代の鎖国がもたらした華やかな文化にも通ずるなとすぐ連想が働いた。
 村上のエッセイは5,6年前に書かれたものだが、最近IT関連でよく登場する「ガラケー」(ガラパゴス携帯)もまさしくそれだなと感じた。
 
 雑誌で見かけた文章が面白かった。 
 携帯電話市場に限らずそういうように「日本独自の進化を遂げている(ただし世界から見るとマイナー)」な現象は、情報通信機器関連だけでなく、他のサービスなどにも見られるということで、これを「ガラパゴス化」と称しているらしい。

 結局、どんなに情報が押し寄せようとそれを受けとめるだけでは、情報に対して閉じているとしか言えず、向き合って発信していくという姿勢が必要なのではないかと思う。

 世界での競争力うんぬんは私には荷が重いが、そういう原則は日常の仕事や身の周りの暮らし方にもあるのだと思う。
 趣味的にどんどんと洗練させていく何かを私たちは常に抱えていそうだ。それは膨れ上がった情報社会への一つの身の処し方ではあるが、正対とは言い難い。その構えを続けているちに、どうにも抜き差しならなくなるのだはなかろうか。
 ガラパゴスに価値がないわけではないが、ガラパゴスと称されることを良しと引き受けていいものか。

 ずいぶんと抽象的な言い回しをしているが、私自身の中に具体的ないくつかの対象がある。
 それは仕事上のことでいえば、例えば授業研究であり、学級経営であったりする。

群像劇的手法ってどうなの

2010年05月06日 | 読書
 連休中に計4冊、3つの小説を読んだ。
 発刊されたときから気になっていた本だが、文庫化に合わせて買い込んだものだ。

 『告白』(湊かなえ著 双葉文庫)
 『カシオペアの丘で(上・下巻)』(重松清著 講談社文庫)
 『東京島』(桐野夏生著 新潮文庫)
 
 どれもそれなりに楽しく読めた。

 『告白』はさすがに本屋大賞という作品で、我が子を殺された女教師の告白から始まる展開は読み手を惹きつけるし、ところどころに仕掛けがあってミステリっぽさも十分だ。

 『カシオペアの丘で』は、重松にとっての一番の長編らしい。長編といえば私には『疾走』が印象深いが、その時の息苦しさとは違う感傷めいた気分にさせられたのは、どこかノスタルジアめいたものだったろうか。

 『東京島』はとにかく設定の面白さ。そして読んでいくうちに人物になんとなく同化させられていくような…初めての桐野作品だったが、筆力が高いんだなと感じた。

 三冊目でふと思ったのは、三冊とも話者が複数で章立てされているということだった。
 最近はこうした形態をとる小説が多いのだろうか。たくさん読み込んでいるわけではないのでなんとも言えないが、他にもずいぶんあるような気がする。

 カテゴリーとして「群像劇」と言えるのかもしれない。
 複数の視点で語るメリットは様々あるだろう。
 まあ、書き手にしてみればそれなりの考えで設定すると思うが、読み手としてはそれらの中に自分にフィットする箇所がある可能性は高くなるわけで、受け入れやすくなるのかな、などと単純に考えてみる。
 そうすると、言ってみれば安易な手法という批判もできるか。

 この三作品のどれかが悪いとは思わないが、そうした形をとる必然性ははたしてあったのか(この必然性を何に求めるか、ということだろうけれども)と考えてみれば、自分の中では評価めいた感想も出てくる。